思い、そして感じた事をそのまま
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麻生が財務全事務次官セクハラ問題に関し、非常に気になる事を言っている。前事務次官は女性記者などにはめられたんじゃないかと。
財務省の福田淳一・前事務次官のセクハラ問題で、麻生太郎財務相は11日、「(福田氏が)はめられて訴えられているんじゃないかとか、ご意見はいっぱいある」などと発言したことについて、「よく言われている話で、そういう可能性は否定できない。本当に事実かもしれない。(福田氏の)裁判で結果がきちんとされていくと思う」と述べた。
立憲民主党の尾辻かな子氏が同日午前の衆院財務金融委員会で、現在の認識をただしたのに答えた。尾辻氏が発言の撤回も求めたのに対し、麻生氏は「あの場で言ったのは不適切だったというのであれば、そうなるかもしれない」と話した。
福田氏のセクハラがあったと認めているのかを繰り返し問われると、麻生氏は「今の段階として、(福田氏)本人が(セクハラは)ないと言っている以上、あるとはなかなか言えない」とも述べた。直後に「個人としていかがかと聞かれたからお答えした。財務大臣としては(セクハラを)認めた」と釈明したが、麻生氏のセクハラ問題に対する認識を問う声がさらに高まりそうだ。
(2018/05/11朝日新聞)
麻生の発言には批判が多い様だが、決して間違っているとは思えない。実際にセクハラを受けた被害者と意識するなら、姿を隠す事なく堂々と表しどの場でどの様な取材を行っていた時に、どの様なセクハラ行為を受けていたのかを自ら明らかにすべきではないか。週刊新潮が公開した録音データだけでは、決して女性記者がセクハラを受けていたとは決断しきる事はできない。
逆に、録音データの公開とマスコミの報道によって前事務次官はセクハラ行為を行っていたと完全に決め付けられてしまった。厚労省に対価型と環境型の2つのタイプのセクハラが公表されているが、録音データだけで判断する事になれば、環境型になるが録音データだけでは疑問が多く感じられる。
女性記者は取材中に前事務次官が発言したとしているんだろうが、実際に女性記者と前事務次官はどの様な会話を行っていたのだろうか。取材の為に前事務次官と食事の場にいたのであろうと、取材に関する言葉を発していたと思うのだが、取材内容は何だったんだろう。
セクハラ被害を訴える女性記者やテレビ朝日は、取材内容を明らかにしようとはしないし、録音データも公開しようとはしない。
本当にセクハラ被害を浮け大きな心的外傷を受けたというのであれば、単に編集されたとしか思われない録音データだけを公開し、他のメディアと共同し前事務次官がセクハラ行為を実行したと批判するばかりではなく、ジャーナリストとして客観的な情報も公開する責任があるんじゃないのか。先にも書いたが、どの様な場で、どの様な取材を行い答弁を求めていたのか。会話を行っていたのか。何よりも、録音データを編集したものを公開ではなく、そのままのものを公開すべきの筈。何故、そういった事をしようとはしない。
公開された、録音データだけを聞かされれば、財務省であろうと、どの場の者であろうと環境型セクハラが実行されたと判断せざるを得ないだろう。被害者と訴える女性記者にとっては、思い通りの展開ではないかとも思えてしまう。麻生が言うように、はめられたのかもしれないと思えてならない。前事務次官は編集された録音データの公開によって、セクハラ行為を行ったという印象付けをされてしまったのだ。
昨日、ある番組を観ている時、女性キャスターが麻生の発言を流した後に番組のMC達との会話で、セクハラの対象はイメージで変わるといった事を言っていた。この時には非常に不快に感じさせられたよ。自分に接する男性が、イケメンかそうで無いか、或いは自分のお気に入りか否かで相手へのイメージは大きく変わると。女性のこういった意識の持ち方も、男性に対するセクハラ行為ではないのか。
法務省はセクハラを人権問題としている。「人種、性別、民族、年齢などを理由とした差別は、人権問題であると広く認められています。「セクハラ」も、相手の人権を無視した不快感を与える行為であり、人権問題のひとつです」と。セクハラは社会一般では女性が受けるものと強く意識されているようだが、大きな間違いで、女性だけではなく男性も受ける行為とされている。男性から男性、或いは女性から男性に対し。
法務省はセクハラを人権問題としている。「人種、性別、民族、年齢などを理由とした差別は、人権問題であると広く認められています。「セクハラ」も、相手の人権を無視した不快感を与える行為であり、人権問題のひとつです」と。セクハラは社会一般では女性が受けるものと強く意識されているようだが、大きな間違いで、女性だけではなく男性も受ける行為とされている。男性から男性、或いは女性から男性に対し。
セクハラを判断する時の大きな問題は、客観性が重視される事がない。どの様な行為からセクハラとなるかラインが示されてなどいない。あくまで被害を受けたとする者の主観を重視する事となっている。被害者と訴える者が、相手の発言や行為が不快と感じた時にセクハラ行為を行ったとするだろう。相手の発言や行為への意識は、相手へのイメージによって大きく異なってくる。気にいらない者などから接せられた時には、ちょっとした事でもセクハラ行為を感じるのかもしれない。逆にお気に入りの者から接せられれば、そういった事を感じる事は殆ど無いのではないだろうか。
セクハラという単語には大きな問題もある。実際には全く受けてもいないのに、気に入らない者を一つの座から貶める為に、自分はセクハラ行為を受けた被害者だと強く訴える。ジャーナリストでありながら、客観的事実を一切公開しようとはせず、ただ被害者とばかりを訴え続け、一人の官僚をまさに陥れた。
被害者とばかり訴える女性記者は、ジャーナリストとして何ら恥じる事はないんだろうか。
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