思い、そして感じた事をそのまま
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
週刊朝日に書かれていた「ハシシタ 奴の本性」とやらは大きな話題になって、各大手新聞紙の電子版に書かれていた記事には橋下を擁護し週刊朝日、或いは朝日新聞を批判するツイッターが殆ど。
ブログに関しても多く書かれていたみたいで、BLOGSに紹介されている物もあるが、橋下を擁護し朝日などを批判する記事や橋下自身が書く物があったが、一寸時間が経ってくると異なる物もポツポツ出てくるようになってくる。
最初は風潮に駆られて書いていた人もいたのだろうし、それに同意する人も多かったんじゃないだろうかと思える。だが、時間が経ってくると週刊朝日を冷静に見て書く人物も現れる。
橘玲氏の「週刊朝日は謝罪すべきではなかったし、連載を続けるべきだった」や宮武嶺(徳岡宏一朗弁護士)の「佐野眞一氏と週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」は橋下徹大阪市長の人権を侵害していない」など。
自分は週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」などという記事など全く読む気が無いと書いたが、すでに完売などと情報が流れているが現在でも全く興味を持てない。ただ橋下にいい様に利用されていると思えてならないので。
被差別部落というのは江戸時代に置かれていた士農工商やその他の身分の世襲を行わせていた身分制度によって生まれたものとされている。
士は武士であり最も高い身分にあったのだろうが、農工商は平人とされ現代で言えば一般人として扱われていたのだろうか。その下に、「穢多・非人」とされる賤民とされる身分が存在していたらしい。
これらの集落、或いは部落が被差別部落と称されていたのでは無いのだろうか。だが、この身分制度は明治時代に廃止されている。
現代の行政では被差別部落を同和と称されている。そして現代の民衆は過去の被差別部落である同和地区に暮らす人々を差別する意識を持っている持っているとされる。これを同和問題とされていると思われるのだが。
橋下はこの事を捉えて「血脈主義」、「身分制度」という言葉を連発していたのだろうか。
この同和問題に関してはメディアは取り上げてはならない、扱ってはならないとされていたらしいとして、自主規制を行っていたらしいが。週刊朝日は同和問題に関わる記事を書いているみたいだ。
同和地区と特定されている地域を特定し、絡めて橋下にの人格を追求する記事を書いた。この事に関し激しい批判が行われていたのではないだろうか。
橋下や記事を批判する者達は、この記事に書かれていたらしい同和地区を特命していた面や橋下がそこに暮らし、父親がどの様な人物であったかなど出自を明らかとしようとしていた事など。特に同和地区に橋下を絡める事に批判は集中されていたのではないだろうか。
特にメディアに関わる者達は、同和地区に関して書かれた部分を強く批判しているのではないかと思えるが。
そして橋下は、この記事は表現の自由の一線を越えた物であり人権侵害とも強調している。自分に対してなのかそれとも明らかとされた一つの同和地区、或いは被差別部落と称される地域に暮らす人々への人権侵害と訴えていたのだろうか。
橋下は、この週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」を一線を越えた報道であり人権侵害だと強調し批判する。では、同和地区に暮らす人々に対する人権侵害、或いは自分に対する人権侵害としているのか。果たしてどっちなのだろう。
橋下のツイッターを見れば、「これは公人チェックでもなんでもなく、単に僕や家族を社会的に抹殺するための記事。」といった事を活発に書いている。
間違いなく地域の人々では無く、橋下個人に対する人権侵害だと主張しながら朝日新聞などを激しく批判しているのだろう。
だが橋下は、7月2日に市内24区長の公募合格者を集めた会議で、橋下は公人には「今までの生活と違うことを意識して態度、振る舞いを律してほしい。今日からはプライバシーも基本的人権もないと考えてほしい」と発言している。
公人でもある自分にもプライバシー、基本的人権は無いと言い切っている筈だ。だから、公務に勤める者達に対しては個人の意思など一切無視し、強制的に自分の要求する事の実行を命じていた。
それに応じない者には罰を与えるとしていなかったか。故に、橋下の行っている事は人権違反だと弁護士会やその他多くの者から強く批判されていたの筈だ。
他の公務に勤める者達には人権やプライバシーを認めようとはせずに、同じ公人でありながら自分に関しては人権を主張する。
橋下を擁護する者達の意識は知らないが、自分は納得できない。
人権侵害を強調する橋下に対し徳岡宏一朗弁護士のブログ「Everyone says I love you !」には反論する記事が書かれてある。
-引用-
橋下氏がそういうものですから、君が代起立斉唱条例や、彼の職員組合に対する対応を『人権違反だ!!(と言う言葉は初めて聞いたけど)』と批判している私でも、今回は、「部落差別や人権侵害は許さない」ときっぱりけじめをつけて言い切りますよ、というところを見せようと、あえて普段は買わない雑誌を注文したのです。
私自身、何度も、橋下氏自身の責任ではない出自を問題にすべきではないと書いてきましたし。
ところが、今回の記事を読んでみると、これは橋下氏の人権を侵害していないばかりか、もちろん部落差別の意図が感じられるような記事ではなかったんですね。
問題なのは、佐野氏や編集長も認めている通り、橋下家が一時住んでいたある地域に被差別部落があると書いた部分だけでしょう。それは橋下氏自身の人権を侵害する部分ではなくて、他の方に迷惑をかける部分です。それ以外にも編集長は複数問題があるといっていますが、私にはほかには見当たりませんでした。
しかし、今はネット上でもリアルでも、橋下氏自身の人権侵害されたという論調で塗りつぶされているのでしょう?しかも、当事者たちが早々と白旗を掲げて「ごめんなさい」しているのに、記事に人権侵害がないといまさら私がいうのも、リスクだけあって益がない間抜けな話です。
-引用-
この記事に対し、橋下はツイッターで反論をというよりも個人への中傷を書いていたと思われるが。また、弁護士や日本弁護士会などは自分の行う事には「人権違反」と批判を重ねていたが、自分に関する「人権侵害」に関しては何も言わない。
これまでの自分への人権に関する批判は自分達の存在意義を示そうとしていただけだろう、だから自分に関する「人権侵害」には何も言わないと批判する。
週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」に書かれていただろう同和地区の指定地域の人々の事などは一切無視していた事になるのではないだろうか。本当に同和問題、同和地区に暮らす人々に対する差別意識が現在でも存在しているのなら同和地区の地域が示されている事を大きな問題と捉えなければならなかったのではないのだろうか。
だが、橋下にはその様な意識が感じられない。あくまでも自分の出自に関する取材に対して怒りを強調し、朝日ばかりを強烈に批判している。
何よりも、橋下は府知事の時代から自分は同和地区で育ったんだと自ら発言をしている。ユーチューブにもあるが、産経新聞にも記載されている。
-引用-
むろん、橋下の同和施策が少年期の体験だけで進められているわけではない。ただ、このデリケートな問題を人一倍、目の当たりにし、視野を広げ、自らの頭で考え続けてきたことは確かである。
「私はいわゆる同和地区で育ったが、同和問題は全く解決されていない。ただ、差別意識があるからといって、特別な優遇措置を与えていいのかは別問題。一から総点検していただく」。今年3月の府議会で、そう言い切った橋下。
補助金の見直しを求めた4月の府の公開議論では、一向に具体案を提示しない担当職員を険しい表情で切り捨てる一幕もあった。「中身がまったく出てこない。府民に分かりにくい」。激怒した橋下はさらにこう続けた。
「 むろん、橋下の同和施策が少年期の体験だけで進められているわけではない。ただ、このデリケートな問題を人一倍、目の当たりにし、視野を広げ、自らの頭で考え続けてきたことは確かである。
「私はいわゆる同和地区で育ったが、同和問題は全く解決されていない。ただ、差別意識があるからといって、特別な優遇措置を与えていいのかは別問題。一から総点検していただく」。今年3月の府議会で、そう言い切った橋下。
補助金の見直しを求めた4月の府の公開議論では、一向に具体案を提示しない担当職員を険しい表情で切り捨てる一幕もあった。「中身がまったく出てこない。府民に分かりにくい」。激怒した橋下はさらにこう続けた。
「この問題に真っ正面から取り組まないと人権問題、同和問題は解決しない。逃げてはいけない」
(産経新聞2008年/07/30)
-引用-
週刊朝日の記事を自分の人格や家族を抹消する為に書かれたものと批判しているが、府知事時代に自ら同和地区より育ったんだと明らかにしている。
出自により自分が同和地区で育った事が明らかにされた事を自分に対する人権侵害としているが、同和問題に対しどれだけの対処を行っていたのだろうか。
また、橋下徹に関してはWekipediaでも取り上げられており、出自に関してもかなり詳しく書かれている。それらを書く資料の中には、週刊朝日の記事は含まれていない。
橋下は府知事の時から自分は同和地区で育っていると明らかとしているしている事は完全な事実。
また政治家でもある公人の人格を求めるにはその個人の姿勢だけを追及するのではなく、どの様な家庭・環境で育っていたのか出自を強く追求される事も当然の事ではないのだろうか。
昨年に発売された週刊新潮や週刊文春などは橋下の出自を追求する記事を書いていたのだろうし、今月に発売された週刊朝日の記事の趣旨も同じ事ではなかったか。
橋下自身の出身は東京かもしれないが、小学生の頃から大阪市の同和地区で育っている事を明らかとしている。にも拘らず、マスコミによって明かされる事を「人権侵害」、「暴力」などと表現するのだろう。
更に、自分の出自が明らかとされる事は自分の人格や家庭の抹消だと表現する。
週刊新潮などでは同和地区で育ったとは書かれていても、どの地域で暮らしていたのはまでは書いていなかったと思われる。だが、産経新聞が下記の事を記事としている。
-引用-
《私の中学では同和教育をしている。前の学校では、ひとかけらもこんな教育を受けたことがなかった》
これは、橋下徹(はしもと・とおる)が中学時代に書いた卒業文集の一節だ。ほかの生徒の多くが、「3年間の思い出」のような子供らしい内容に終始する中、橋下がつけたタイトルは「視野を広げる」。
東京から大阪に移り、2度目の引っ越し先となった大阪市東淀川区での生活は、橋下自身が「僕の人格を作ってくれたところ」と振り返っているように、濃密な時間だった。中でも中学校で学んだ人権教育は、思春期の橋下にとって「カルチャーショック」とも言える出来事だったようだ。
(産経新聞2008/07/30)
-引用-
「この問題に真っ正面から取り組まないと人権問題、同和問題は解決しない。逃げてはいけない」と主張していた橋下府知事は、真正面から取り組まなければ人権問題とする同和問題をどの様に解決していたのだろうか。
というよりも、本当に真正面から取り組んでいたのだろうか。自分は大阪府の者では無いが、強い疑念が感じられてならない。
産経の記事は東淀川区で暮らしていた事を特定している。更に月間「同和と在日」というブログに「G2」の10年12月号に森功「同和と橋下徹」を軸として書かれているが、橋下の同和地区での暮らしがより詳しく書かれている。
過去から橋下の同和での暮らしが何件も書かれ、その地域も特定される様に書かれてある。過去から自ら明かし、更には複数のメディアを通じ橋下と同和の情報が流通されていたのに、今回の週刊朝日に関し飲み激しく批判する様な行動に出たのだろう。
何故、週刊朝日に書かれた記事を強く取り上げ、権力により朝日新聞の取材拒否を行ったのだろうか。
ただ朝日が嫌いだっただけ、朝日の記事は殆ど見ていないので分らないけれど橋下にとっては都合の悪い事ばかりが書かれていたのだろうか。また、橋下は朝日は取材場所に来ることは構わないし、取材を取材する事も構わない。
だが朝日の取材だけは拒否するとしていた。
週刊朝日の記事を暴力としているが、橋下の行動こそ権力による暴力ではないかと思えてならないが。
そして週刊朝日の記事は報道の一線を越えた記事であり、暴力であり、自分への人権侵害だと激しく批判というよりも強調している。
まず、父親が暴力団員だった、過去に育った場所が同和地区だった。こういった事が一線を越えた報道の暴力、人権侵害となるのだろうか。
同和地区に暮らしていた事など出自が明らかとされれば、自分の子供達にも影響を及ぼす事となる。自分の人格と家庭を抹消する為に書かれた記事だと可笑しな表現までしている。
「ハシシタ 奴の本性」は同和問題を助長するとされているとも思われるが、この記事を読んだ人々や批判する人々は同和問題をどの様に意識しているのだろうか。
同和を探っている間に非常に関心を持つ様になってしまった。
だが、本来の橋下の本名は「ハシシタ トオル」らしく、橋下が幼児の頃に母親がハシシタから橋下へ改名したとWekipediaの「橋下徹」には記されている。
また、本名は「ハシシタ トオル」とするユーチューブも存在するが。
同和地区とされる地域はユーチューブなどによっても紹介されている。自分には同和地区とはどの様な地域なのかなど全く理解できていなかったので、何件か見させてもらった。
古い建物が多く貧乏の様な地域に見えるから、地域のインフレなどが完全に整備されていないから同和地区とされているのかと思わされたが。
ただ単純に蔑視しているとしか思われない。
見た中から2件だけ紹介させてもらいます。「大和高田」と「不気味で気持ち悪い。西成あいりんの裏路地。」。
大和高田には自分には不快に思えるコメントもありましたので。
日本国憲法第14条に「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とされている。
どの様な地域、或いはどの様な暮らしをしていようと「すべて国民は、法の下に平等」とされている。
同和地区とされる地域に暮らしているから部落差別という意識を持つこと事態が異常と思えてならない。
どの様な場所で暮らし、どの様な生活を送っていようとも偏見したり、差別する必要など無い筈だ。その様な意識を持つこと事態が「人権侵害」となるのではないのか。
マスコミは同和問題を報じる事を自主規制しているらしいが、何故そうしなければならない。逆ではないか。
報じないでは無く、活発に報じる事により同和問題とはどういったことなのかを多くの人々にしっかりと認識してもらう必要がある。蔑視している者、差別意識を持っている人など全ての人々に。
情報を封じ、何も伝えようとしない知らせようとしない、その様な姿勢を行っていれば過去から根付いているだろう差別意識がいつまで経っても消える訳が無い。
一部の地域が差別されるとされる同和問題の解決を求めるなら、ただ地域の改善を行えば言いという事では無く、人々の意識の改善事が最も重要なのではないのか。
なのに、何故マスコミは活発に報じようとはしない。どころか、一人の人間に絡めて同和地区を記事にした事を激しく批判が行われた。
単に橋下を擁護する為に批判した者も多くいたのかもしれないが、同和地区を蔑視する意識を持っている者も多くいたのではないのだろうか。
そして橋下も、同和地区で育っていながら蔑視している一人ではないかと思えてならない。
記事は自分や過程を抹消する為に書かれたものと強調しているが、橋下は記事を「血脈主義」「身分主義」などと称していなかっただろうか。
自分が部落民の血脈とされれば自分も部落民とされ、自分の子供や家庭に大きな悪影響を与える事となると強調しているのだろう。
となれば、橋下自身が血脈主義であり部落民の血を引く者は部落民であると言い切っていると思えてならない。
同和地区とされる地域で暮らそうがそれ以外の地域で暮らそうが、一人の個人として成長していく。決して差別される為に成長するという事など有り得ない。ただ、育ち方による個人のイメージや体の機能に障害を持つ者達は、イメージや障害を基として蔑視されている可能性が高いのではないかと思われるが。
差別される者が現れようと地域などは一切関係ない。それぞれの家庭でどの様な成長をしていくのか、障害者となるか否かにより蔑視されるか否かに大きな違いが出るのではないかと思われる。
同和地区とされる地域と差別は実質的には関係の無い事なのではないか。
同和地区への差別はあくまでも人間の差別意識であって、同和問題を解決するという事は同和地区への差別意識による蔑視を抹消する事ではなかったかと思えるが、蔑視を抹消しなければならないといった意識など無かったのだろう。
橋下自身も部落民と称される同和地区の人々を蔑視している。
故に、自分の出自で同和地区で育っていた事が報じられれば、同和地区で家系が暮らしていた事が報じられれば自分達も部落民とされてしまうと意識しただろうし、利用しようともした。だから、記事は自分の人格や家庭を抹消する為に書かれたものだと強調しているのだろう。
自分で明かしてきていた事、或いは晒されてきていた事が多くあったのにこれまでには取材拒否という行動などは行ってはいなかった。だが、今回の週刊朝日に関してのみ何故だか行っている。
最近の橋下は竹島問題などで非常に呆れた発言などを行い、支持率を大きく減少させていた筈だ。その事も意識していたのだろうな。
この時期に、自分の出自に絡み同和問題に関わる記事を書いた週刊朝日がいい獲物となったのだろう。故に朝日などの取材拒否という権力の横暴を行い、マス・メディアにとって大きな鍵となる取材を強く拒否し、朝日などを屈服させ自分の発言を正道化させ大きく減少した支持率の上昇を図っていたのだろう。
自分の益の為になら週刊誌の記事も都合よく利用し、マスコミに激しい反論を繰り広げる事により自分の高感度を挙げる、と同時に支持率も回復させようとしていた。
更には、記事に書かれていた同和問題に関わる面ももしっかりと利用している事は間違いないだろう。やはり橋下という者は、異常であり卑怯な者と思えてならない。
ブログに関しても多く書かれていたみたいで、BLOGSに紹介されている物もあるが、橋下を擁護し朝日などを批判する記事や橋下自身が書く物があったが、一寸時間が経ってくると異なる物もポツポツ出てくるようになってくる。
最初は風潮に駆られて書いていた人もいたのだろうし、それに同意する人も多かったんじゃないだろうかと思える。だが、時間が経ってくると週刊朝日を冷静に見て書く人物も現れる。
橘玲氏の「週刊朝日は謝罪すべきではなかったし、連載を続けるべきだった」や宮武嶺(徳岡宏一朗弁護士)の「佐野眞一氏と週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」は橋下徹大阪市長の人権を侵害していない」など。
自分は週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」などという記事など全く読む気が無いと書いたが、すでに完売などと情報が流れているが現在でも全く興味を持てない。ただ橋下にいい様に利用されていると思えてならないので。
被差別部落というのは江戸時代に置かれていた士農工商やその他の身分の世襲を行わせていた身分制度によって生まれたものとされている。
士は武士であり最も高い身分にあったのだろうが、農工商は平人とされ現代で言えば一般人として扱われていたのだろうか。その下に、「穢多・非人」とされる賤民とされる身分が存在していたらしい。
これらの集落、或いは部落が被差別部落と称されていたのでは無いのだろうか。だが、この身分制度は明治時代に廃止されている。
現代の行政では被差別部落を同和と称されている。そして現代の民衆は過去の被差別部落である同和地区に暮らす人々を差別する意識を持っている持っているとされる。これを同和問題とされていると思われるのだが。
橋下はこの事を捉えて「血脈主義」、「身分制度」という言葉を連発していたのだろうか。
この同和問題に関してはメディアは取り上げてはならない、扱ってはならないとされていたらしいとして、自主規制を行っていたらしいが。週刊朝日は同和問題に関わる記事を書いているみたいだ。
同和地区と特定されている地域を特定し、絡めて橋下にの人格を追求する記事を書いた。この事に関し激しい批判が行われていたのではないだろうか。
橋下や記事を批判する者達は、この記事に書かれていたらしい同和地区を特命していた面や橋下がそこに暮らし、父親がどの様な人物であったかなど出自を明らかとしようとしていた事など。特に同和地区に橋下を絡める事に批判は集中されていたのではないだろうか。
特にメディアに関わる者達は、同和地区に関して書かれた部分を強く批判しているのではないかと思えるが。
そして橋下は、この記事は表現の自由の一線を越えた物であり人権侵害とも強調している。自分に対してなのかそれとも明らかとされた一つの同和地区、或いは被差別部落と称される地域に暮らす人々への人権侵害と訴えていたのだろうか。
橋下は、この週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」を一線を越えた報道であり人権侵害だと強調し批判する。では、同和地区に暮らす人々に対する人権侵害、或いは自分に対する人権侵害としているのか。果たしてどっちなのだろう。
橋下のツイッターを見れば、「これは公人チェックでもなんでもなく、単に僕や家族を社会的に抹殺するための記事。」といった事を活発に書いている。
間違いなく地域の人々では無く、橋下個人に対する人権侵害だと主張しながら朝日新聞などを激しく批判しているのだろう。
だが橋下は、7月2日に市内24区長の公募合格者を集めた会議で、橋下は公人には「今までの生活と違うことを意識して態度、振る舞いを律してほしい。今日からはプライバシーも基本的人権もないと考えてほしい」と発言している。
公人でもある自分にもプライバシー、基本的人権は無いと言い切っている筈だ。だから、公務に勤める者達に対しては個人の意思など一切無視し、強制的に自分の要求する事の実行を命じていた。
それに応じない者には罰を与えるとしていなかったか。故に、橋下の行っている事は人権違反だと弁護士会やその他多くの者から強く批判されていたの筈だ。
他の公務に勤める者達には人権やプライバシーを認めようとはせずに、同じ公人でありながら自分に関しては人権を主張する。
橋下を擁護する者達の意識は知らないが、自分は納得できない。
人権侵害を強調する橋下に対し徳岡宏一朗弁護士のブログ「Everyone says I love you !」には反論する記事が書かれてある。
-引用-
橋下氏がそういうものですから、君が代起立斉唱条例や、彼の職員組合に対する対応を『人権違反だ!!(と言う言葉は初めて聞いたけど)』と批判している私でも、今回は、「部落差別や人権侵害は許さない」ときっぱりけじめをつけて言い切りますよ、というところを見せようと、あえて普段は買わない雑誌を注文したのです。
私自身、何度も、橋下氏自身の責任ではない出自を問題にすべきではないと書いてきましたし。
ところが、今回の記事を読んでみると、これは橋下氏の人権を侵害していないばかりか、もちろん部落差別の意図が感じられるような記事ではなかったんですね。
問題なのは、佐野氏や編集長も認めている通り、橋下家が一時住んでいたある地域に被差別部落があると書いた部分だけでしょう。それは橋下氏自身の人権を侵害する部分ではなくて、他の方に迷惑をかける部分です。それ以外にも編集長は複数問題があるといっていますが、私にはほかには見当たりませんでした。
しかし、今はネット上でもリアルでも、橋下氏自身の人権侵害されたという論調で塗りつぶされているのでしょう?しかも、当事者たちが早々と白旗を掲げて「ごめんなさい」しているのに、記事に人権侵害がないといまさら私がいうのも、リスクだけあって益がない間抜けな話です。
-引用-
この記事に対し、橋下はツイッターで反論をというよりも個人への中傷を書いていたと思われるが。また、弁護士や日本弁護士会などは自分の行う事には「人権違反」と批判を重ねていたが、自分に関する「人権侵害」に関しては何も言わない。
これまでの自分への人権に関する批判は自分達の存在意義を示そうとしていただけだろう、だから自分に関する「人権侵害」には何も言わないと批判する。
週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」に書かれていただろう同和地区の指定地域の人々の事などは一切無視していた事になるのではないだろうか。本当に同和問題、同和地区に暮らす人々に対する差別意識が現在でも存在しているのなら同和地区の地域が示されている事を大きな問題と捉えなければならなかったのではないのだろうか。
だが、橋下にはその様な意識が感じられない。あくまでも自分の出自に関する取材に対して怒りを強調し、朝日ばかりを強烈に批判している。
何よりも、橋下は府知事の時代から自分は同和地区で育ったんだと自ら発言をしている。ユーチューブにもあるが、産経新聞にも記載されている。
-引用-
むろん、橋下の同和施策が少年期の体験だけで進められているわけではない。ただ、このデリケートな問題を人一倍、目の当たりにし、視野を広げ、自らの頭で考え続けてきたことは確かである。
「私はいわゆる同和地区で育ったが、同和問題は全く解決されていない。ただ、差別意識があるからといって、特別な優遇措置を与えていいのかは別問題。一から総点検していただく」。今年3月の府議会で、そう言い切った橋下。
補助金の見直しを求めた4月の府の公開議論では、一向に具体案を提示しない担当職員を険しい表情で切り捨てる一幕もあった。「中身がまったく出てこない。府民に分かりにくい」。激怒した橋下はさらにこう続けた。
「 むろん、橋下の同和施策が少年期の体験だけで進められているわけではない。ただ、このデリケートな問題を人一倍、目の当たりにし、視野を広げ、自らの頭で考え続けてきたことは確かである。
「私はいわゆる同和地区で育ったが、同和問題は全く解決されていない。ただ、差別意識があるからといって、特別な優遇措置を与えていいのかは別問題。一から総点検していただく」。今年3月の府議会で、そう言い切った橋下。
補助金の見直しを求めた4月の府の公開議論では、一向に具体案を提示しない担当職員を険しい表情で切り捨てる一幕もあった。「中身がまったく出てこない。府民に分かりにくい」。激怒した橋下はさらにこう続けた。
「この問題に真っ正面から取り組まないと人権問題、同和問題は解決しない。逃げてはいけない」
(産経新聞2008年/07/30)
-引用-
週刊朝日の記事を自分の人格や家族を抹消する為に書かれたものと批判しているが、府知事時代に自ら同和地区より育ったんだと明らかにしている。
出自により自分が同和地区で育った事が明らかにされた事を自分に対する人権侵害としているが、同和問題に対しどれだけの対処を行っていたのだろうか。
また、橋下徹に関してはWekipediaでも取り上げられており、出自に関してもかなり詳しく書かれている。それらを書く資料の中には、週刊朝日の記事は含まれていない。
橋下は府知事の時から自分は同和地区で育っていると明らかとしているしている事は完全な事実。
また政治家でもある公人の人格を求めるにはその個人の姿勢だけを追及するのではなく、どの様な家庭・環境で育っていたのか出自を強く追求される事も当然の事ではないのだろうか。
昨年に発売された週刊新潮や週刊文春などは橋下の出自を追求する記事を書いていたのだろうし、今月に発売された週刊朝日の記事の趣旨も同じ事ではなかったか。
橋下自身の出身は東京かもしれないが、小学生の頃から大阪市の同和地区で育っている事を明らかとしている。にも拘らず、マスコミによって明かされる事を「人権侵害」、「暴力」などと表現するのだろう。
更に、自分の出自が明らかとされる事は自分の人格や家庭の抹消だと表現する。
週刊新潮などでは同和地区で育ったとは書かれていても、どの地域で暮らしていたのはまでは書いていなかったと思われる。だが、産経新聞が下記の事を記事としている。
-引用-
《私の中学では同和教育をしている。前の学校では、ひとかけらもこんな教育を受けたことがなかった》
これは、橋下徹(はしもと・とおる)が中学時代に書いた卒業文集の一節だ。ほかの生徒の多くが、「3年間の思い出」のような子供らしい内容に終始する中、橋下がつけたタイトルは「視野を広げる」。
東京から大阪に移り、2度目の引っ越し先となった大阪市東淀川区での生活は、橋下自身が「僕の人格を作ってくれたところ」と振り返っているように、濃密な時間だった。中でも中学校で学んだ人権教育は、思春期の橋下にとって「カルチャーショック」とも言える出来事だったようだ。
(産経新聞2008/07/30)
-引用-
「この問題に真っ正面から取り組まないと人権問題、同和問題は解決しない。逃げてはいけない」と主張していた橋下府知事は、真正面から取り組まなければ人権問題とする同和問題をどの様に解決していたのだろうか。
というよりも、本当に真正面から取り組んでいたのだろうか。自分は大阪府の者では無いが、強い疑念が感じられてならない。
産経の記事は東淀川区で暮らしていた事を特定している。更に月間「同和と在日」というブログに「G2」の10年12月号に森功「同和と橋下徹」を軸として書かれているが、橋下の同和地区での暮らしがより詳しく書かれている。
過去から橋下の同和での暮らしが何件も書かれ、その地域も特定される様に書かれてある。過去から自ら明かし、更には複数のメディアを通じ橋下と同和の情報が流通されていたのに、今回の週刊朝日に関し飲み激しく批判する様な行動に出たのだろう。
何故、週刊朝日に書かれた記事を強く取り上げ、権力により朝日新聞の取材拒否を行ったのだろうか。
ただ朝日が嫌いだっただけ、朝日の記事は殆ど見ていないので分らないけれど橋下にとっては都合の悪い事ばかりが書かれていたのだろうか。また、橋下は朝日は取材場所に来ることは構わないし、取材を取材する事も構わない。
だが朝日の取材だけは拒否するとしていた。
週刊朝日の記事を暴力としているが、橋下の行動こそ権力による暴力ではないかと思えてならないが。
そして週刊朝日の記事は報道の一線を越えた記事であり、暴力であり、自分への人権侵害だと激しく批判というよりも強調している。
まず、父親が暴力団員だった、過去に育った場所が同和地区だった。こういった事が一線を越えた報道の暴力、人権侵害となるのだろうか。
同和地区に暮らしていた事など出自が明らかとされれば、自分の子供達にも影響を及ぼす事となる。自分の人格と家庭を抹消する為に書かれた記事だと可笑しな表現までしている。
「ハシシタ 奴の本性」は同和問題を助長するとされているとも思われるが、この記事を読んだ人々や批判する人々は同和問題をどの様に意識しているのだろうか。
同和を探っている間に非常に関心を持つ様になってしまった。
だが、本来の橋下の本名は「ハシシタ トオル」らしく、橋下が幼児の頃に母親がハシシタから橋下へ改名したとWekipediaの「橋下徹」には記されている。
また、本名は「ハシシタ トオル」とするユーチューブも存在するが。
同和地区とされる地域はユーチューブなどによっても紹介されている。自分には同和地区とはどの様な地域なのかなど全く理解できていなかったので、何件か見させてもらった。
古い建物が多く貧乏の様な地域に見えるから、地域のインフレなどが完全に整備されていないから同和地区とされているのかと思わされたが。
ただ単純に蔑視しているとしか思われない。
見た中から2件だけ紹介させてもらいます。「大和高田」と「不気味で気持ち悪い。西成あいりんの裏路地。」。
大和高田には自分には不快に思えるコメントもありましたので。
日本国憲法第14条に「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とされている。
どの様な地域、或いはどの様な暮らしをしていようと「すべて国民は、法の下に平等」とされている。
同和地区とされる地域に暮らしているから部落差別という意識を持つこと事態が異常と思えてならない。
どの様な場所で暮らし、どの様な生活を送っていようとも偏見したり、差別する必要など無い筈だ。その様な意識を持つこと事態が「人権侵害」となるのではないのか。
マスコミは同和問題を報じる事を自主規制しているらしいが、何故そうしなければならない。逆ではないか。
報じないでは無く、活発に報じる事により同和問題とはどういったことなのかを多くの人々にしっかりと認識してもらう必要がある。蔑視している者、差別意識を持っている人など全ての人々に。
情報を封じ、何も伝えようとしない知らせようとしない、その様な姿勢を行っていれば過去から根付いているだろう差別意識がいつまで経っても消える訳が無い。
一部の地域が差別されるとされる同和問題の解決を求めるなら、ただ地域の改善を行えば言いという事では無く、人々の意識の改善事が最も重要なのではないのか。
なのに、何故マスコミは活発に報じようとはしない。どころか、一人の人間に絡めて同和地区を記事にした事を激しく批判が行われた。
単に橋下を擁護する為に批判した者も多くいたのかもしれないが、同和地区を蔑視する意識を持っている者も多くいたのではないのだろうか。
そして橋下も、同和地区で育っていながら蔑視している一人ではないかと思えてならない。
記事は自分や過程を抹消する為に書かれたものと強調しているが、橋下は記事を「血脈主義」「身分主義」などと称していなかっただろうか。
自分が部落民の血脈とされれば自分も部落民とされ、自分の子供や家庭に大きな悪影響を与える事となると強調しているのだろう。
となれば、橋下自身が血脈主義であり部落民の血を引く者は部落民であると言い切っていると思えてならない。
同和地区とされる地域で暮らそうがそれ以外の地域で暮らそうが、一人の個人として成長していく。決して差別される為に成長するという事など有り得ない。ただ、育ち方による個人のイメージや体の機能に障害を持つ者達は、イメージや障害を基として蔑視されている可能性が高いのではないかと思われるが。
差別される者が現れようと地域などは一切関係ない。それぞれの家庭でどの様な成長をしていくのか、障害者となるか否かにより蔑視されるか否かに大きな違いが出るのではないかと思われる。
同和地区とされる地域と差別は実質的には関係の無い事なのではないか。
同和地区への差別はあくまでも人間の差別意識であって、同和問題を解決するという事は同和地区への差別意識による蔑視を抹消する事ではなかったかと思えるが、蔑視を抹消しなければならないといった意識など無かったのだろう。
橋下自身も部落民と称される同和地区の人々を蔑視している。
故に、自分の出自で同和地区で育っていた事が報じられれば、同和地区で家系が暮らしていた事が報じられれば自分達も部落民とされてしまうと意識しただろうし、利用しようともした。だから、記事は自分の人格や家庭を抹消する為に書かれたものだと強調しているのだろう。
自分で明かしてきていた事、或いは晒されてきていた事が多くあったのにこれまでには取材拒否という行動などは行ってはいなかった。だが、今回の週刊朝日に関してのみ何故だか行っている。
最近の橋下は竹島問題などで非常に呆れた発言などを行い、支持率を大きく減少させていた筈だ。その事も意識していたのだろうな。
この時期に、自分の出自に絡み同和問題に関わる記事を書いた週刊朝日がいい獲物となったのだろう。故に朝日などの取材拒否という権力の横暴を行い、マス・メディアにとって大きな鍵となる取材を強く拒否し、朝日などを屈服させ自分の発言を正道化させ大きく減少した支持率の上昇を図っていたのだろう。
自分の益の為になら週刊誌の記事も都合よく利用し、マスコミに激しい反論を繰り広げる事により自分の高感度を挙げる、と同時に支持率も回復させようとしていた。
更には、記事に書かれていた同和問題に関わる面ももしっかりと利用している事は間違いないだろう。やはり橋下という者は、異常であり卑怯な者と思えてならない。
PR
昨日、「新報道2001」には前原と茂木が出演していたが、前原は国会解散は今年中には行われると強調する様に発言していた。
野田を擁護するように発言しながら、臨時国会で予定されている大きな法案が通れば、通るようにすれば野田は解散を行うんだと。そして、野党は解散時期を示す事ばかりを要求しているからいけないんだと。
そうでは無く、法案を通す事に協力する姿勢を見せなければならないといった事を主張していなかったろうか。
視聴者により前原の発言の受け止め方は色々あったのだろうが、自分は前原の発現に納得が出来なかった。
予算法案の可決などは政権政党である自分達の責任だとは言い切っていたかと思えるが、予算法案の可決が苦しい状況となっているのは解散時期を明らかとする事を強く要求する野党の責任でもあると責任転嫁しようとしていたのではないか。
前原は「近いうちは」年内に行われなければならない事だと強く何度も発言していた。そして野田もその約束を破るような事は無いんだと。
だから、臨時国会で重視される法案の可決を行えばいいんだし、野党はそれに協力する義務があるんだとしていなかったか。
だが、本当に法案が可決されれば解散するという意思をしっかりと持っているのなら、先日に行われた党首会談でその事を示そうとはしなかったのだろうか。
特例公債などは政府だけでは無い、自治体や国民生活にも非常に影響ある非常に重要な法案。即急に可決する事に協力してもらえるのなら、野党の要求には応じ、解散総選挙を行うと言い切る事が出来なかったのか。
前原の発言と野田の行動には大きな矛盾があると思えてならない。
民主幹部の者達は野田は延命を図ってなどいないと主張していたが、昨日には前原の発言を否定するために安住が前原の「個人の見解」だと主張をする。
更に、今日になると、藤村が「解散を決めるのは首相だけだ。共有するような話ではない」と発言し前原の年内発言とする発言に不快感を示していたという。
前原は都合よく発言を繰り返していたが、野田は本当に今年中に解散する意思があると確信を持って発言をしていたのだろうか。
それとも、臨時国会での参議院審議拒否を窺がわせる野党に責任転嫁を図っての発言ではなかったのか。
前原も「新報道2001」では野田は約束を破る者では無いなどと言っていたと思われるが、その様な発言を信じる者が果たしていたのだろうか。
野田を擁護し、野党への協力を促そうとする。単に誘い言葉として「年内解散」と発言し、野田内閣は延命を図ろうとはしていない。
重要法案の可決も真摯に考えているのだと強調しようとしていた。と同時に、野党を解散時期のよう要求を求めるばかりを行っていて臨時国会では審議拒否も行おうとしているのではないか。
国民生活を無視した政局ばかりを意識した行動を行っているのでは無いのか、その様なイメージを視聴者に持たせようとしていたのではないか。
法案可決の責任は政権与党である民主にある事は、民主の連中もしっかりとは意識している筈だ。にも拘らず、その為の行動を実質的に示そうとはしない。
何よりも8月に行われたらしい谷垣と野田の会談では、野田は年内での予算編成は行わないと発言していたらしい。
要するに、8月の時点で年内の解散を約束していた事になる。なのに、具体的にはそれに関する発言を積極的に行おうなどとはせずに、逆に消極的な発言を活発に行っているのでは無いか。
年内解散など行う意図など無く、延命ばかりを図ろうとしている。
故に、特例公債の可決が行われるか否か非常に心配される状態となってきているのに、ただ野党の協力を求めるばかりで自分達で可決を確実に行える環境を作ろうとはしていない。
となれば、可決が不可となった時には自分達の責任では無く協力をしなかった野党の責任だと主張しようと図っているのではないのか。
民主はもう政権を任される政党しての責任意識も無い。ただ政権与党の地位を少しでも長く維持していたいと意識しているだけだろう。
こんな政党に何時までも政権を任せていては、本当に日本の経済・社会などはどこまでも可笑しくなってしまう。
少しでも早くに解散総選挙が行われる事が強く望まれてならない。
野田を擁護するように発言しながら、臨時国会で予定されている大きな法案が通れば、通るようにすれば野田は解散を行うんだと。そして、野党は解散時期を示す事ばかりを要求しているからいけないんだと。
そうでは無く、法案を通す事に協力する姿勢を見せなければならないといった事を主張していなかったろうか。
視聴者により前原の発言の受け止め方は色々あったのだろうが、自分は前原の発現に納得が出来なかった。
予算法案の可決などは政権政党である自分達の責任だとは言い切っていたかと思えるが、予算法案の可決が苦しい状況となっているのは解散時期を明らかとする事を強く要求する野党の責任でもあると責任転嫁しようとしていたのではないか。
前原は「近いうちは」年内に行われなければならない事だと強く何度も発言していた。そして野田もその約束を破るような事は無いんだと。
だから、臨時国会で重視される法案の可決を行えばいいんだし、野党はそれに協力する義務があるんだとしていなかったか。
だが、本当に法案が可決されれば解散するという意思をしっかりと持っているのなら、先日に行われた党首会談でその事を示そうとはしなかったのだろうか。
特例公債などは政府だけでは無い、自治体や国民生活にも非常に影響ある非常に重要な法案。即急に可決する事に協力してもらえるのなら、野党の要求には応じ、解散総選挙を行うと言い切る事が出来なかったのか。
前原の発言と野田の行動には大きな矛盾があると思えてならない。
民主幹部の者達は野田は延命を図ってなどいないと主張していたが、昨日には前原の発言を否定するために安住が前原の「個人の見解」だと主張をする。
更に、今日になると、藤村が「解散を決めるのは首相だけだ。共有するような話ではない」と発言し前原の年内発言とする発言に不快感を示していたという。
前原は都合よく発言を繰り返していたが、野田は本当に今年中に解散する意思があると確信を持って発言をしていたのだろうか。
それとも、臨時国会での参議院審議拒否を窺がわせる野党に責任転嫁を図っての発言ではなかったのか。
前原も「新報道2001」では野田は約束を破る者では無いなどと言っていたと思われるが、その様な発言を信じる者が果たしていたのだろうか。
野田を擁護し、野党への協力を促そうとする。単に誘い言葉として「年内解散」と発言し、野田内閣は延命を図ろうとはしていない。
重要法案の可決も真摯に考えているのだと強調しようとしていた。と同時に、野党を解散時期のよう要求を求めるばかりを行っていて臨時国会では審議拒否も行おうとしているのではないか。
国民生活を無視した政局ばかりを意識した行動を行っているのでは無いのか、その様なイメージを視聴者に持たせようとしていたのではないか。
法案可決の責任は政権与党である民主にある事は、民主の連中もしっかりとは意識している筈だ。にも拘らず、その為の行動を実質的に示そうとはしない。
何よりも8月に行われたらしい谷垣と野田の会談では、野田は年内での予算編成は行わないと発言していたらしい。
要するに、8月の時点で年内の解散を約束していた事になる。なのに、具体的にはそれに関する発言を積極的に行おうなどとはせずに、逆に消極的な発言を活発に行っているのでは無いか。
年内解散など行う意図など無く、延命ばかりを図ろうとしている。
故に、特例公債の可決が行われるか否か非常に心配される状態となってきているのに、ただ野党の協力を求めるばかりで自分達で可決を確実に行える環境を作ろうとはしていない。
となれば、可決が不可となった時には自分達の責任では無く協力をしなかった野党の責任だと主張しようと図っているのではないのか。
民主はもう政権を任される政党しての責任意識も無い。ただ政権与党の地位を少しでも長く維持していたいと意識しているだけだろう。
こんな政党に何時までも政権を任せていては、本当に日本の経済・社会などはどこまでも可笑しくなってしまう。
少しでも早くに解散総選挙が行われる事が強く望まれてならない。
読売や毎日など複数の新聞がが面白い記事を書いている。大阪の橋下が朝日新聞や朝日放送の取材は拒否すると。
その理由が、自分は読む気も無いけど今週に発売された「週刊朝日」でノンフィヒクションライター佐野眞一らの書いた「ハシシタ 奴の本性」という記事のの中身が気に入らない様で、朝日からの取材は拒否すると。
拒否する理由として取り上げた記事の内容はハッキリ分らないけれど、橋下の血統や系列などを取材している事らしいが。
この記事に関し、橋下は「僕はこれは血脈主義、ないしは身分制につながる極めて恐ろしい考え方だと思っている」と批判しているらしい。
また、「僕も生身の人間ですから、許せない」などと自分の主張を正当化せんとするかの様な発言も行っているみたいだが。
で、橋下の朝日への批判と主張にある「血脈主義」とは一体どういう意味なのだろうか。血脈だと、単純に言えば先祖からの血の繋がり。これにどんな主義があるんだろう。
自分などには分らない。そして身分制にもつながる極めてて恐ろしい考え方としているが、身分制とも何なんだろう。これもしつこく検索してみるが「身分制度」の事を言っているのかなと思えてくる。
身分制度とは何かといえば、社会的階級であって橋下の現在の社会的階級は公人となっているんじゃないのかな。
橋下は「週刊朝日」が自分の事を書いている事を批判し朝日系の取材拒否を主張している筈。要は自分のプライバシーを記事とした事を批判し、許される事では無いと主張している。
プライバシーなどを明らかとされる事を「自分も生身の人間だから許せない」と発言しているらしい。だが、橋下が過去に発言している事とは矛盾する事が発生していないだろうか。
7月2日に市内24区長の公募合格者を集めた会議で、橋下は公人には「今までの生活と違うことを意識して態度、振る舞いを律してほしい。今日からはプライバシーも基本的人権もないと考えてほしい」として、公人として自覚ある行動を取る様に釘を刺している筈だ。
公人にはプライバシーや基本的人権など無いと、橋下は執拗に言い切っている。
まず公人とはなんだろう。公職にある者で、公務員や議員など。橋下も市長だが公務員の筈。要するに公人の一人。
では、プライバシーと基本的人権とは何か。プライバシーは個人の秘密なんだろうし、基本的人権は個人に与えられる国家権力により制限される事の無い自由権であり、参政権、生存権、社会権が保障される人権だろうか。
公人は、これらプライバシーや基本的人権を持ち得ないと橋下は主張していた筈だし、公務に勤める者達にもこの主張を基として行動を行ってきていたんじゃなかったろうか。
自分にはプライバシーも基本的人権も無いんだと言い切っていた筈の橋下。「週刊朝日」の記事では橋下の血筋や親の事などが書かれているらしいが、公務に勤める者達は私的な事をどの様に言われ様とそれらに関し拒否する権限は無いと主張しきっていたんじゃないのか。
なのに何故批判をし、朝日の取材を拒否すると言い切るのだろう。過去の発言と、現在の行動が全く異なっていると思えてならないが。
これまで公務員にも同じ様な事を主張し、公務員その者を強烈に批判し続けていたのではなかったのだろうか。
だからこそ、公務に務める者達の人権など無視してやりたい様にやりまくっていたし、批判もしまくっていた。橋下は朝日の取材を拒否すると言い切る時に、これまでに自分が行ってきていた事の意識は無かったのだろうか。
公務に勤める者に対するしっかりとした意識を持った行動をしてきていたのであれば、「週刊朝日」には橋下のプライバシーに関する事が記事にされていただろうと思えるが、何も文句など言う権利など無かったのではないかと思われるが。
公人にはプライバシーや基本的人権は無いと言い切っているのだから。
自分以外の公務に勤める者達に対しては強烈に厳しい姿勢を取ろうとしていたのに、同じく公務に勤める自分に関しては逆に甘い姿勢をとろうとしている。
他の公務に勤める者達の人権など認めないとしていながら、自分に関する事にはプライバシーと人権を強く主張しようとする。非常に不平等な行動を行っているのではないのだろうか。
過去の主張とは異なる主張を平気で行う橋下。完璧な二重人格なんだなと、改めて意識させられた。
その理由が、自分は読む気も無いけど今週に発売された「週刊朝日」でノンフィヒクションライター佐野眞一らの書いた「ハシシタ 奴の本性」という記事のの中身が気に入らない様で、朝日からの取材は拒否すると。
拒否する理由として取り上げた記事の内容はハッキリ分らないけれど、橋下の血統や系列などを取材している事らしいが。
この記事に関し、橋下は「僕はこれは血脈主義、ないしは身分制につながる極めて恐ろしい考え方だと思っている」と批判しているらしい。
また、「僕も生身の人間ですから、許せない」などと自分の主張を正当化せんとするかの様な発言も行っているみたいだが。
で、橋下の朝日への批判と主張にある「血脈主義」とは一体どういう意味なのだろうか。血脈だと、単純に言えば先祖からの血の繋がり。これにどんな主義があるんだろう。
自分などには分らない。そして身分制にもつながる極めてて恐ろしい考え方としているが、身分制とも何なんだろう。これもしつこく検索してみるが「身分制度」の事を言っているのかなと思えてくる。
身分制度とは何かといえば、社会的階級であって橋下の現在の社会的階級は公人となっているんじゃないのかな。
橋下は「週刊朝日」が自分の事を書いている事を批判し朝日系の取材拒否を主張している筈。要は自分のプライバシーを記事とした事を批判し、許される事では無いと主張している。
プライバシーなどを明らかとされる事を「自分も生身の人間だから許せない」と発言しているらしい。だが、橋下が過去に発言している事とは矛盾する事が発生していないだろうか。
7月2日に市内24区長の公募合格者を集めた会議で、橋下は公人には「今までの生活と違うことを意識して態度、振る舞いを律してほしい。今日からはプライバシーも基本的人権もないと考えてほしい」として、公人として自覚ある行動を取る様に釘を刺している筈だ。
公人にはプライバシーや基本的人権など無いと、橋下は執拗に言い切っている。
まず公人とはなんだろう。公職にある者で、公務員や議員など。橋下も市長だが公務員の筈。要するに公人の一人。
では、プライバシーと基本的人権とは何か。プライバシーは個人の秘密なんだろうし、基本的人権は個人に与えられる国家権力により制限される事の無い自由権であり、参政権、生存権、社会権が保障される人権だろうか。
公人は、これらプライバシーや基本的人権を持ち得ないと橋下は主張していた筈だし、公務に勤める者達にもこの主張を基として行動を行ってきていたんじゃなかったろうか。
自分にはプライバシーも基本的人権も無いんだと言い切っていた筈の橋下。「週刊朝日」の記事では橋下の血筋や親の事などが書かれているらしいが、公務に勤める者達は私的な事をどの様に言われ様とそれらに関し拒否する権限は無いと主張しきっていたんじゃないのか。
なのに何故批判をし、朝日の取材を拒否すると言い切るのだろう。過去の発言と、現在の行動が全く異なっていると思えてならないが。
これまで公務員にも同じ様な事を主張し、公務員その者を強烈に批判し続けていたのではなかったのだろうか。
だからこそ、公務に務める者達の人権など無視してやりたい様にやりまくっていたし、批判もしまくっていた。橋下は朝日の取材を拒否すると言い切る時に、これまでに自分が行ってきていた事の意識は無かったのだろうか。
公務に勤める者に対するしっかりとした意識を持った行動をしてきていたのであれば、「週刊朝日」には橋下のプライバシーに関する事が記事にされていただろうと思えるが、何も文句など言う権利など無かったのではないかと思われるが。
公人にはプライバシーや基本的人権は無いと言い切っているのだから。
自分以外の公務に勤める者達に対しては強烈に厳しい姿勢を取ろうとしていたのに、同じく公務に勤める自分に関しては逆に甘い姿勢をとろうとしている。
他の公務に勤める者達の人権など認めないとしていながら、自分に関する事にはプライバシーと人権を強く主張しようとする。非常に不平等な行動を行っているのではないのだろうか。
過去の主張とは異なる主張を平気で行う橋下。完璧な二重人格なんだなと、改めて意識させられた。
8月29日に参議院で首相問責決議が可決されたが、民主党、或いは民主党議員達はどの様な反応を示していただろうか。
29日に問責決議の可能性が極めて高いとされたのは、可決の数日前。
これをどの様に意識したのか、可決する以前に民主は衆議院で特例公債法案や選挙制度改革に関する法案の可決を強引に行っていた。
更に可決後の民主党議員達は、問責決議は参議院での審議を拒否する事であり可決する事により特例公債法案など重要な審議が行われなくなってしまう。
野党は重要法案の審議を拒否していると激しく批判をしていなかったろうか。
民主は参議院で首相問責決議案が可決される以前に衆議院で臨時国会で重要法案の一つとされる特例公債法案や選挙制度改革に関し急ぐ様に可決をしている。
特に、選挙制度改革に関しては野党の意見など一切無視して、自分達の主張していた事をそのまま強引に可決し参議院へ回す様にした。
衆議院で特例公債法案など可決しておけば、後は参議院での審議が行われなくなる。だが、首相問責決議案が可決されれば野党はこれらの法案審議を拒否する事になるのでは無いか。
特例公債法案が可決される事がなければ、野党の責任とする事が出来るなどと非常に幼稚な考えによる行動を行っていたのだろうか。
更に、自分達だけが主張する選挙制度に関する法案も強引に参議院へ回しておけば、臨時国会を開いても審議を拒否するだろう野党の責任となるなどと意識していたのかもしれない。
ただ解散選挙などは絶対に行いたくは無いからという自分勝手な意識から。
そして、問責決議案が可決された段階から民主党議員達は訴えていた筈だ。そうなれば臨時国会では重要法案の審議が行われなくなってしまうとして、自民など野党を激しく批判していた。
臨時国会は開催しなければならない。そして、我々国民生活にも大きな影響をもたらす事になる特例公債法案などの審議を行わなければならないと。臨時国会は必ず開催し、重要法案などの審議を必ず行わなければならないと。
だが、何時の間にやら民主は臨時国会の開催を拒否する様になっている。
このまま開かれず、特例公債法案が可決されない事となってしまえば、地方交付税などが廃止となり自治体の財政状況に悪影響を与える事は間違い無く、更に住民の生活にも影響する事は間違いないだろう。
更に、現在では非常に問題視されている復興予算の扱われ方。本当に被災地の復興の為に活用されているのか、被災地を無視した扱われ方がされているのではないのか。
また、複数の閣僚に色々な問題があった事が発覚している。こういった問題もしっかりと審議を行い、内閣はこれら閣僚に対し何らかの決断を行わなければならない。
特に赤字国債が発行されるには絶対に必要とされる特例公債法案の審議と可決も無視するかの様な臨時国会開催を拒否する動きを見せている。
政権与党としては非常に無責任な行動では無いのか。来年度の予算概算要求では98兆円とされている。この内、税収が40兆ばかりで税収で賄えない部分を赤字国債によって補うとされている。
となれば予算概算要求の5割以上が赤字国債となるのではないのか。
赤字国債の発行が行わなければ住民の生活だけで無く、防衛費など国政にも大きな悪影響が出るとされている。
日本の財政は破綻となってしまい、社会・経済などにも大きな影響をもたらす事となるのではないか。それからの日本は一体どの様な状況となってしまうのだろうか。
政権与党は日本の財政だけでは無く内政や経済、外交の責任を任されている筈だ。更に、内政には野田が強く訴えていた社会保障も含まれているのではないのか。
臨時国会を開催しようとはせず、特例公債法案の審議や可決を行おうとしないのであれば、自ら強く訴えていた「税と社会保障の一体改革」も否定する事になるのではないかと思えるが。
解散要求を強く行っている野党の動きを民主の岡田は、赤字国債発行を人質とし法案を通して欲しければ解散総選挙を確約しろとする事が、国民に不信感をもたれているといった事を発言しているらしい。
更に「解散は総理大臣の大権であり、総理大臣が決めるのが常識だ。解散の時期を明示しないと、ほかの相談に応じないというのは、まったく受け入れられない論理だ」と発言しているらしい。
解散が総理の大権か否か知らないが、多くの有権者である国民は早急の解散総選挙を望んでいる筈であり、臨時国会をさっさと始めろと強く要求する者達が多いのではないだろうか。
国民の意思を無視し政治、或いは政府への不信感を高めているのは自分達だと、全く気づかないのかな。
何よりも野党の頃には一体どの様な行動を活発に行っていた。政権与党からの審議要求には屁理屈を抜かしながら応じようとはせずに、解散要求ばかりを行っていた。
口では国民の為だと出鱈目な発言とマスコミの援助から有権者の目を自分達に向けさせるが、本音は国民無視で自分達が政権与党と成りたかっただけの事だろう。
また、山井国対委員長とやらは「国民が今、求めているのは政局や政争ではなく、しっかりとした政策の実行だ。国民生活を左右する重要な法案を人質に取るということはあってはならない」と発言しているらしいが、「しっかりした政策の実行」を拒否しているのは自分達だとしっかりと認識しているだろうと思えるが、現在の国会状況の責を野党に押し付けようとしている。
民主の者達は、自分達が実行しなければならない責務を全く無視しているとしか思われない。
更にだ、民主で黄門とかされている最高顧問の渡辺恒三が「時事放談」の収録で、「自民党は解散約束しなければ臨時国会開いても出席しないと言っている。これはちょっと極端すぎる」と発言したらしいが、こういった事は自分達が野党の頃にやりまくってた事なんじゃないのか。
正に国民無視の行動を。その当時の政権与党は、民主などから審議拒否があろうと国会はしっかりと開催していたのではないかと思われるが。
本当に国民の為の政治を行おうとしていたのであれば、野党政党がどの様な要求を突きつけようと国会はしっかりと開催し法案審議をしっかり行うと同時に、審議を進行させる為にも野党からの要求に対応する行動も行わなければならない。
そうする事が政権を預かっている政党の姿勢ではないのか。
また、最高裁が現在の選挙制度は違憲であると判決を下されているが、選挙制度改革を早急に行う事が求められている筈だ。
だが、野田内閣にはまともに審議を行おう意思など無いのだろう。
衆議院では野党側が訴える0増5減を否定し、逆に野党が反対する比例代表連用制を用いた選挙制度改革を主張し、野党との審議は無視するように衆議院を強制的に通過させてしまっている。
解散総選挙を避ける為の道具としか意識していないのではないのだろうか。与野党が反論しあっている段階で、臨時国会で早急に選挙制度改革が行われるなどといった事は無いだろう。
そして、選挙制度改革が成されなければ解散総選挙を実行する事は難しいだろうから。
政権交代前のマスコミなら、この様な国民を無視し自分達ばかりを重視しようとする政党など強烈に批判しているだろうと思われるが。
だが、適当な批判は行われようとも政権交代前の様な激しい政権批判が行われているとは思われない、特にテレビメディアからは。
メディア、特にテレビは国民生活を苦しい状況に追い込んでいるだけの民主政権をどの様に意識しているのだろうか。
29日に問責決議の可能性が極めて高いとされたのは、可決の数日前。
これをどの様に意識したのか、可決する以前に民主は衆議院で特例公債法案や選挙制度改革に関する法案の可決を強引に行っていた。
更に可決後の民主党議員達は、問責決議は参議院での審議を拒否する事であり可決する事により特例公債法案など重要な審議が行われなくなってしまう。
野党は重要法案の審議を拒否していると激しく批判をしていなかったろうか。
民主は参議院で首相問責決議案が可決される以前に衆議院で臨時国会で重要法案の一つとされる特例公債法案や選挙制度改革に関し急ぐ様に可決をしている。
特に、選挙制度改革に関しては野党の意見など一切無視して、自分達の主張していた事をそのまま強引に可決し参議院へ回す様にした。
衆議院で特例公債法案など可決しておけば、後は参議院での審議が行われなくなる。だが、首相問責決議案が可決されれば野党はこれらの法案審議を拒否する事になるのでは無いか。
特例公債法案が可決される事がなければ、野党の責任とする事が出来るなどと非常に幼稚な考えによる行動を行っていたのだろうか。
更に、自分達だけが主張する選挙制度に関する法案も強引に参議院へ回しておけば、臨時国会を開いても審議を拒否するだろう野党の責任となるなどと意識していたのかもしれない。
ただ解散選挙などは絶対に行いたくは無いからという自分勝手な意識から。
そして、問責決議案が可決された段階から民主党議員達は訴えていた筈だ。そうなれば臨時国会では重要法案の審議が行われなくなってしまうとして、自民など野党を激しく批判していた。
臨時国会は開催しなければならない。そして、我々国民生活にも大きな影響をもたらす事になる特例公債法案などの審議を行わなければならないと。臨時国会は必ず開催し、重要法案などの審議を必ず行わなければならないと。
だが、何時の間にやら民主は臨時国会の開催を拒否する様になっている。
このまま開かれず、特例公債法案が可決されない事となってしまえば、地方交付税などが廃止となり自治体の財政状況に悪影響を与える事は間違い無く、更に住民の生活にも影響する事は間違いないだろう。
更に、現在では非常に問題視されている復興予算の扱われ方。本当に被災地の復興の為に活用されているのか、被災地を無視した扱われ方がされているのではないのか。
また、複数の閣僚に色々な問題があった事が発覚している。こういった問題もしっかりと審議を行い、内閣はこれら閣僚に対し何らかの決断を行わなければならない。
特に赤字国債が発行されるには絶対に必要とされる特例公債法案の審議と可決も無視するかの様な臨時国会開催を拒否する動きを見せている。
政権与党としては非常に無責任な行動では無いのか。来年度の予算概算要求では98兆円とされている。この内、税収が40兆ばかりで税収で賄えない部分を赤字国債によって補うとされている。
となれば予算概算要求の5割以上が赤字国債となるのではないのか。
赤字国債の発行が行わなければ住民の生活だけで無く、防衛費など国政にも大きな悪影響が出るとされている。
日本の財政は破綻となってしまい、社会・経済などにも大きな影響をもたらす事となるのではないか。それからの日本は一体どの様な状況となってしまうのだろうか。
政権与党は日本の財政だけでは無く内政や経済、外交の責任を任されている筈だ。更に、内政には野田が強く訴えていた社会保障も含まれているのではないのか。
臨時国会を開催しようとはせず、特例公債法案の審議や可決を行おうとしないのであれば、自ら強く訴えていた「税と社会保障の一体改革」も否定する事になるのではないかと思えるが。
解散要求を強く行っている野党の動きを民主の岡田は、赤字国債発行を人質とし法案を通して欲しければ解散総選挙を確約しろとする事が、国民に不信感をもたれているといった事を発言しているらしい。
更に「解散は総理大臣の大権であり、総理大臣が決めるのが常識だ。解散の時期を明示しないと、ほかの相談に応じないというのは、まったく受け入れられない論理だ」と発言しているらしい。
解散が総理の大権か否か知らないが、多くの有権者である国民は早急の解散総選挙を望んでいる筈であり、臨時国会をさっさと始めろと強く要求する者達が多いのではないだろうか。
国民の意思を無視し政治、或いは政府への不信感を高めているのは自分達だと、全く気づかないのかな。
何よりも野党の頃には一体どの様な行動を活発に行っていた。政権与党からの審議要求には屁理屈を抜かしながら応じようとはせずに、解散要求ばかりを行っていた。
口では国民の為だと出鱈目な発言とマスコミの援助から有権者の目を自分達に向けさせるが、本音は国民無視で自分達が政権与党と成りたかっただけの事だろう。
また、山井国対委員長とやらは「国民が今、求めているのは政局や政争ではなく、しっかりとした政策の実行だ。国民生活を左右する重要な法案を人質に取るということはあってはならない」と発言しているらしいが、「しっかりした政策の実行」を拒否しているのは自分達だとしっかりと認識しているだろうと思えるが、現在の国会状況の責を野党に押し付けようとしている。
民主の者達は、自分達が実行しなければならない責務を全く無視しているとしか思われない。
更にだ、民主で黄門とかされている最高顧問の渡辺恒三が「時事放談」の収録で、「自民党は解散約束しなければ臨時国会開いても出席しないと言っている。これはちょっと極端すぎる」と発言したらしいが、こういった事は自分達が野党の頃にやりまくってた事なんじゃないのか。
正に国民無視の行動を。その当時の政権与党は、民主などから審議拒否があろうと国会はしっかりと開催していたのではないかと思われるが。
本当に国民の為の政治を行おうとしていたのであれば、野党政党がどの様な要求を突きつけようと国会はしっかりと開催し法案審議をしっかり行うと同時に、審議を進行させる為にも野党からの要求に対応する行動も行わなければならない。
そうする事が政権を預かっている政党の姿勢ではないのか。
また、最高裁が現在の選挙制度は違憲であると判決を下されているが、選挙制度改革を早急に行う事が求められている筈だ。
だが、野田内閣にはまともに審議を行おう意思など無いのだろう。
衆議院では野党側が訴える0増5減を否定し、逆に野党が反対する比例代表連用制を用いた選挙制度改革を主張し、野党との審議は無視するように衆議院を強制的に通過させてしまっている。
解散総選挙を避ける為の道具としか意識していないのではないのだろうか。与野党が反論しあっている段階で、臨時国会で早急に選挙制度改革が行われるなどといった事は無いだろう。
そして、選挙制度改革が成されなければ解散総選挙を実行する事は難しいだろうから。
政権交代前のマスコミなら、この様な国民を無視し自分達ばかりを重視しようとする政党など強烈に批判しているだろうと思われるが。
だが、適当な批判は行われようとも政権交代前の様な激しい政権批判が行われているとは思われない、特にテレビメディアからは。
メディア、特にテレビは国民生活を苦しい状況に追い込んでいるだけの民主政権をどの様に意識しているのだろうか。
昨夜のテレビニュースで報じられていたけども、昨年10月に山形市で消防車出動を要請する学生がいたが、山形市の消防本部は結局はそれを拒否した。
この事に学生の母親が消防本部は妥当な措置を行っていたのか、救急車が出動されていれば学生は助かっていたのではなかったかと山形市に損害賠償を求める裁判を起こしている。
このニュース記事はTBSのサイトにも記されているんだが、と同時に学生と消防本部の電話でのやりとりが紹介されている。
-引用-
通報をしたのは、当時、山形大学2年生だった大久保祐映さん(当時19)。大久保さんは山形市内で一人暮らしをしていました。電話はその自宅からでした。
「あなたが苦しいのね、なんてところですか?あなたのお名前は?お名前は?」(消防)
「ジュウキュウ・・・」(大久保さん)
「あなたの名前を教えてもらっていいですか?」(消防)
「19です」(大久保さん)
「19歳なのね?あなたのお名前は?」(消防)
「大久保です」(大久保さん)
「はい?」(消防)
「大久保です」(大久保さん)
「オオクワ?」(消防)
「クボです」(大久保さん)
「大久保さんね」(消防)
電話の音声からは苦しそうな大久保さんの様子がうかがえます。
「歩けるの?」(消防)
「あ、動けると思います」(大久保さん)
「自分で動けるの?」(消防)
「はぁい・・・」(大久保さん)
「あの、救急車じゃなくてタクシーとかで行けますか?」(消防)
「あ・・・はぁ・・・タクシーの番号が分かれば自分で行けると思います」(大久保さん)
「あの、病院は、あの、お教えするので、タクシーの番号はお教えすることができないので、104で聞いてください」(消防)
「はい・・・」(大久保さん)
「お大事に」(消防)
(TBS Newsi2010/10/08)
-引用-
昨夜にこのニュースで学生と消防本部との電話でのやり取りを聞いてみれば、学生は間違い無く大きく体力を失いどの様な病気に掛かっていたのかは分らないけれど、かなり酷い状態となっていたのではないかと思われる。
この事に関し山形市は「消防本部の対応は適切だった」と主張している。
だが、あの学生の声に力が無くなっている事は完全に明らかで、消防本部の問いには一応答えてはいたが、即座に的確な答え方をしていたのでは無く、問われるがままにただ単純に答えていただけではなかったのか。
消防本部の者は学生の声の状態、問いに対する答え方などを的確に判断すれば決して安全な状態では無いと判断できていたのではないのか。
学生からの救急車出動の要請に応じるべきではなかったかと思えてならない。
何よりも、消防本部の者は「あの、病院は、あの、お教えするので」と語っているが、結局は病院に関しなんら情報を提供する事無く「お大事に」を最後に電話を切っている。
山形市はこの消防本部の者の対応を「適切だった」としているが。決してその様な対応を行っていたとは思われない。逆に見殺したんじゃないかとも思えてしまう。
救急車が出動し即座に救急病院に運ばれれば、学生のその時の状態によるのかもしれないが助かっていた可能性は極めて高いんじゃないだろうか。
その様に思うと、山形市の消防本部の者は救急車出動の要請を行った者の状態を電話でのやり取りで要請側の状態を全く把握しようとはせずに、自分の問いに対する答えだけを意識し、要請を拒否したんじゃないのか。
非常に納得の出来ない対応だ。
自分の家族の体調が可笑しいと判断した時に、何度か消防本部に救急車の出動を要請した事がある。当然だろうが、家族の状態を問われる。
自分なりに状態を訴え、救急車に来てもらいたいと強く訴えるが、必ず要請に応じてくれる。
自分もあるが、救急病院へ運ばれた後にはそのまま入院させられる事もある。そして、何が原因で体調が悪くなっていたのかを知らされ、驚かされる事もあった。
現在では救急車はタクシー扱いされているともされている。軽い症状で急いで病院へ行かなくてもよい状態でもやたらと救急車の出動を要請される事が多くなっているとされる。
実際に救急隊員が行ってみれば、救急病院へ運ばれる事を望む者の状態は軽く、決して救急患者の状態では無い。
こういった者達の要請が多くなっている事から消防本部では患者の状態をしっかりと把握する為に的確な問いを行っているのだろうし、現場に赴いた救急隊員達も実際に救急病院へ運ばれる事を臨む者の常態を確認した上で、最終的に判断する事が基本となっているのだろうか。
実際、家族の為に救急車を呼んでも救急隊員は運ばれる事を望む者の常態を確認した上で確定する事が多いし、時にはその様な事などせずに即座に運んでくれる事もあるが。
軽い気持ちで救急車出動を要請する者もいるかもしれないが、自分や家族が危険な状態と感じ要請する者の訴える声には大きな違いが出るのではないのだろうか。
死にたく無い、或いは絶対に助けてもらいたいと強く思う者の訴える声は落ち着いた状態では無い筈だ。
自分達もその様な思いから激しい口調となり訴えていた事が何度かある。
そしてこの学生が消防本部へ要請した時の声は、大きく体力を失った弱々しい状態となっていたし、問いを的確に判断できない時もあれば、単純に答えてしまっている時もある。
対して消防本部の者は要請した者の体の状態をどの様に伺っているのだろう。全くその様なやり取りが見られないのだが。
救急車に関わる消防本部の者は、本人や家族の体調の状況をしっかりと伺い把握する事が最も重要な事ではないのか。
だが、この救急隊員はその様な対応などは一切行わず適当に、いい加減に対応していたんじゃないのか。
山形市はこの電話のやり取りを「消防本部の対応は適切だった」と主張しているらしいが、何も非を認めようとはせず、ただ裁判から逃げようとしているとしか思われない。
山形市の消防本部の者は誤った対応を行っていた事は間違いないだろうし、山形市は率直に消防本部の非を認めるべきではないかと思われるが。
この事に学生の母親が消防本部は妥当な措置を行っていたのか、救急車が出動されていれば学生は助かっていたのではなかったかと山形市に損害賠償を求める裁判を起こしている。
このニュース記事はTBSのサイトにも記されているんだが、と同時に学生と消防本部の電話でのやりとりが紹介されている。
-引用-
通報をしたのは、当時、山形大学2年生だった大久保祐映さん(当時19)。大久保さんは山形市内で一人暮らしをしていました。電話はその自宅からでした。
「あなたが苦しいのね、なんてところですか?あなたのお名前は?お名前は?」(消防)
「ジュウキュウ・・・」(大久保さん)
「あなたの名前を教えてもらっていいですか?」(消防)
「19です」(大久保さん)
「19歳なのね?あなたのお名前は?」(消防)
「大久保です」(大久保さん)
「はい?」(消防)
「大久保です」(大久保さん)
「オオクワ?」(消防)
「クボです」(大久保さん)
「大久保さんね」(消防)
電話の音声からは苦しそうな大久保さんの様子がうかがえます。
「歩けるの?」(消防)
「あ、動けると思います」(大久保さん)
「自分で動けるの?」(消防)
「はぁい・・・」(大久保さん)
「あの、救急車じゃなくてタクシーとかで行けますか?」(消防)
「あ・・・はぁ・・・タクシーの番号が分かれば自分で行けると思います」(大久保さん)
「あの、病院は、あの、お教えするので、タクシーの番号はお教えすることができないので、104で聞いてください」(消防)
「はい・・・」(大久保さん)
「お大事に」(消防)
(TBS Newsi2010/10/08)
-引用-
昨夜にこのニュースで学生と消防本部との電話でのやり取りを聞いてみれば、学生は間違い無く大きく体力を失いどの様な病気に掛かっていたのかは分らないけれど、かなり酷い状態となっていたのではないかと思われる。
この事に関し山形市は「消防本部の対応は適切だった」と主張している。
だが、あの学生の声に力が無くなっている事は完全に明らかで、消防本部の問いには一応答えてはいたが、即座に的確な答え方をしていたのでは無く、問われるがままにただ単純に答えていただけではなかったのか。
消防本部の者は学生の声の状態、問いに対する答え方などを的確に判断すれば決して安全な状態では無いと判断できていたのではないのか。
学生からの救急車出動の要請に応じるべきではなかったかと思えてならない。
何よりも、消防本部の者は「あの、病院は、あの、お教えするので」と語っているが、結局は病院に関しなんら情報を提供する事無く「お大事に」を最後に電話を切っている。
山形市はこの消防本部の者の対応を「適切だった」としているが。決してその様な対応を行っていたとは思われない。逆に見殺したんじゃないかとも思えてしまう。
救急車が出動し即座に救急病院に運ばれれば、学生のその時の状態によるのかもしれないが助かっていた可能性は極めて高いんじゃないだろうか。
その様に思うと、山形市の消防本部の者は救急車出動の要請を行った者の状態を電話でのやり取りで要請側の状態を全く把握しようとはせずに、自分の問いに対する答えだけを意識し、要請を拒否したんじゃないのか。
非常に納得の出来ない対応だ。
自分の家族の体調が可笑しいと判断した時に、何度か消防本部に救急車の出動を要請した事がある。当然だろうが、家族の状態を問われる。
自分なりに状態を訴え、救急車に来てもらいたいと強く訴えるが、必ず要請に応じてくれる。
自分もあるが、救急病院へ運ばれた後にはそのまま入院させられる事もある。そして、何が原因で体調が悪くなっていたのかを知らされ、驚かされる事もあった。
現在では救急車はタクシー扱いされているともされている。軽い症状で急いで病院へ行かなくてもよい状態でもやたらと救急車の出動を要請される事が多くなっているとされる。
実際に救急隊員が行ってみれば、救急病院へ運ばれる事を望む者の状態は軽く、決して救急患者の状態では無い。
こういった者達の要請が多くなっている事から消防本部では患者の状態をしっかりと把握する為に的確な問いを行っているのだろうし、現場に赴いた救急隊員達も実際に救急病院へ運ばれる事を臨む者の常態を確認した上で、最終的に判断する事が基本となっているのだろうか。
実際、家族の為に救急車を呼んでも救急隊員は運ばれる事を望む者の常態を確認した上で確定する事が多いし、時にはその様な事などせずに即座に運んでくれる事もあるが。
軽い気持ちで救急車出動を要請する者もいるかもしれないが、自分や家族が危険な状態と感じ要請する者の訴える声には大きな違いが出るのではないのだろうか。
死にたく無い、或いは絶対に助けてもらいたいと強く思う者の訴える声は落ち着いた状態では無い筈だ。
自分達もその様な思いから激しい口調となり訴えていた事が何度かある。
そしてこの学生が消防本部へ要請した時の声は、大きく体力を失った弱々しい状態となっていたし、問いを的確に判断できない時もあれば、単純に答えてしまっている時もある。
対して消防本部の者は要請した者の体の状態をどの様に伺っているのだろう。全くその様なやり取りが見られないのだが。
救急車に関わる消防本部の者は、本人や家族の体調の状況をしっかりと伺い把握する事が最も重要な事ではないのか。
だが、この救急隊員はその様な対応などは一切行わず適当に、いい加減に対応していたんじゃないのか。
山形市はこの電話のやり取りを「消防本部の対応は適切だった」と主張しているらしいが、何も非を認めようとはせず、ただ裁判から逃げようとしているとしか思われない。
山形市の消防本部の者は誤った対応を行っていた事は間違いないだろうし、山形市は率直に消防本部の非を認めるべきではないかと思われるが。