思い、そして感じた事をそのまま
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橋下という者はどこまでも呆れまくった奴なんだな。大阪府知事の時には当時の既成政党であった自民などを活発に批判し、民主を擁護する発言を行っていたんじゃなかったろうか。
だが、民主の評判が悪くなってくると、逆に民主政権を活発に批判する様になっていた筈だ。
だから府知事時代、大阪市長となってからも民主政権を強烈に批判し、相反する発言を行っていたんじゃないか。自分達は既成政党とは異なる住民の立場に立った行政を行っていると訴えていたと思えるが。
その為により激しく民主政権を批判し、自分達の主張と行動の正当性を訴えようとしていたのではないだろうか。
だが、橋下が知事時代には大阪府の行政を改善したとされるが、逆に悪化してしまった事は紛れも無い事実の筈。行政改善を行うかの様に見せかける為に、活発に多大な借金を行い、大きな債務を残し知事を辞職している。
そして、大阪市長に立候補した時にどういった事を訴えていたのだろうか。大阪市民へのサービスをより活発化させていくなどとも訴えていなかったろうか。
だが、市長となってからは住民の生活などは一切無視していると思われるのだが。住民生活にとって大事だろう行政サービスはどんどんと削除して行き、行政の歳出を抑える事ばかりに主眼を置いている。
大阪市の住民の生活の改善などでは無く、大阪市行政の改善ばかりに目を向けようとしているのではないのだろうか。
そんな橋下が、現在の自分の人気を活用し国政進出を狙っているのだろう。橋下は市長を辞める気は無いとしながら、政党党首も兼務するとしている。
国政政党党首の仕事は自分のプライベートな時間などに出来るなどと、非常に軽はずみな事を発言している。
国政政党党首であれば、国会へも積極的に出向かなければならないのではないだろうか。市長としての仕事も業務時間内にはめいっぱいのスケジュールが組まれているのではないかと思われるが。
その様な公務の仕事を行いながら、国政政党党首としての職務を果たしてどこまで実行する事が出来るのだろう。
市長という職だけでは無く、国政政党党首の職務も非常にいい加減に考えていると思えてならないのだが。
今年中には衆議院の解散総選挙が行われるだろうと推測する評論家が多い。その中から日本維新の会からも多くの当選者が出るだろうと予測はされている。
と同時に、民主党が多くの議席数を失う事は間違い無いとされている。
橋下は民主が議席数を大きく失う事となろうと、自分の政党が多くの議席数を得る事ができれば衆議院では民主との結合により過半数の議席を得る事が出来るのではないか、と推測しているのかもしれない。
橋下の狙っている所は、国会でも大きな権力を握りたいと欲望を持っているだけだろう。
だからこそ、読売新聞の電子版に橋下の発言が載せられているが「(維新と)違う政策には意見を言っていくが、3年前の政権交代で多くの国民から支持を受けた政権であり、何でも反対の姿勢は取らない」と発言しているのだろう。非常に滑稽な発言に思えてならない。
衆議院の解散総選挙が行われる可能性が高まるまでは、野田内閣やそれ以前の内閣を常に批判していた。民主政権を批判しまくっていた。
何も出来ない政権、国政を悪化させていっているなどと。
政権交代前には、マスコミや野党だけでは無い、橋下の政権への批判と同時に民主の擁護などにより、ただ政権を奪いたいと企んでいただろう民主へ国民の目を集中させる様になってしまっていた。
確かに政権交代前にはマスコミだけでは無い橋下の擁護などもあり、大きな信頼を得るようになっていたのかもしれない。
だが、民主政権となってからの日本状況はどうなってしまったのだろうか。改善されるのでは無く、どんどんと悪化させられているのではないかと思えるが。
3年前にどの様な支持を受けていたかなど現在の状況では一切意味の無い事だ。3年前では無く、現在の民主がどの様に意識されているかが大きな問題なのでは無いのか。
政権交代前には民主を擁護しまくり、交代後には批判を活発に行う様になっていた。そして、今になって何故だか民主政権を擁護するかの様な発言を行っている。
政治の思想に強い芯を持ち得ているとは全く思えない非常にいい加減なタレント政治家である橋下をマスコミや大阪の人々はどのように意識しているのかは知らない。
市長選では住民生活を改善するといった事を訴えていたのではないかと思われるが、市長になればそれとは異なる事を平気で行っている。嘘の訴えも平気で行ってしまっている事となる。これほどまでに信用できない者がいたのだろうか。
こんな輩に国政に進出してもらいたいなどとは一切思えないし、もしも国政進出をし権力を握らせる事となれば、日本の経済や社会は壊滅へと向かう事となるのではないか。
民主は橋下の発言をどの様に捉えているのか知らないが、日本維新の会がどれだけの当選者を出そうともどの政党もこの様な政党と結合しようなどとは一切思ってはもらいたくは無いし、行動してもらいたくは無い。
絶対に御免だ。
だが、民主の評判が悪くなってくると、逆に民主政権を活発に批判する様になっていた筈だ。
だから府知事時代、大阪市長となってからも民主政権を強烈に批判し、相反する発言を行っていたんじゃないか。自分達は既成政党とは異なる住民の立場に立った行政を行っていると訴えていたと思えるが。
その為により激しく民主政権を批判し、自分達の主張と行動の正当性を訴えようとしていたのではないだろうか。
だが、橋下が知事時代には大阪府の行政を改善したとされるが、逆に悪化してしまった事は紛れも無い事実の筈。行政改善を行うかの様に見せかける為に、活発に多大な借金を行い、大きな債務を残し知事を辞職している。
そして、大阪市長に立候補した時にどういった事を訴えていたのだろうか。大阪市民へのサービスをより活発化させていくなどとも訴えていなかったろうか。
だが、市長となってからは住民の生活などは一切無視していると思われるのだが。住民生活にとって大事だろう行政サービスはどんどんと削除して行き、行政の歳出を抑える事ばかりに主眼を置いている。
大阪市の住民の生活の改善などでは無く、大阪市行政の改善ばかりに目を向けようとしているのではないのだろうか。
そんな橋下が、現在の自分の人気を活用し国政進出を狙っているのだろう。橋下は市長を辞める気は無いとしながら、政党党首も兼務するとしている。
国政政党党首の仕事は自分のプライベートな時間などに出来るなどと、非常に軽はずみな事を発言している。
国政政党党首であれば、国会へも積極的に出向かなければならないのではないだろうか。市長としての仕事も業務時間内にはめいっぱいのスケジュールが組まれているのではないかと思われるが。
その様な公務の仕事を行いながら、国政政党党首としての職務を果たしてどこまで実行する事が出来るのだろう。
市長という職だけでは無く、国政政党党首の職務も非常にいい加減に考えていると思えてならないのだが。
今年中には衆議院の解散総選挙が行われるだろうと推測する評論家が多い。その中から日本維新の会からも多くの当選者が出るだろうと予測はされている。
と同時に、民主党が多くの議席数を失う事は間違い無いとされている。
橋下は民主が議席数を大きく失う事となろうと、自分の政党が多くの議席数を得る事ができれば衆議院では民主との結合により過半数の議席を得る事が出来るのではないか、と推測しているのかもしれない。
橋下の狙っている所は、国会でも大きな権力を握りたいと欲望を持っているだけだろう。
だからこそ、読売新聞の電子版に橋下の発言が載せられているが「(維新と)違う政策には意見を言っていくが、3年前の政権交代で多くの国民から支持を受けた政権であり、何でも反対の姿勢は取らない」と発言しているのだろう。非常に滑稽な発言に思えてならない。
衆議院の解散総選挙が行われる可能性が高まるまでは、野田内閣やそれ以前の内閣を常に批判していた。民主政権を批判しまくっていた。
何も出来ない政権、国政を悪化させていっているなどと。
政権交代前には、マスコミや野党だけでは無い、橋下の政権への批判と同時に民主の擁護などにより、ただ政権を奪いたいと企んでいただろう民主へ国民の目を集中させる様になってしまっていた。
確かに政権交代前にはマスコミだけでは無い橋下の擁護などもあり、大きな信頼を得るようになっていたのかもしれない。
だが、民主政権となってからの日本状況はどうなってしまったのだろうか。改善されるのでは無く、どんどんと悪化させられているのではないかと思えるが。
3年前にどの様な支持を受けていたかなど現在の状況では一切意味の無い事だ。3年前では無く、現在の民主がどの様に意識されているかが大きな問題なのでは無いのか。
政権交代前には民主を擁護しまくり、交代後には批判を活発に行う様になっていた。そして、今になって何故だか民主政権を擁護するかの様な発言を行っている。
政治の思想に強い芯を持ち得ているとは全く思えない非常にいい加減なタレント政治家である橋下をマスコミや大阪の人々はどのように意識しているのかは知らない。
市長選では住民生活を改善するといった事を訴えていたのではないかと思われるが、市長になればそれとは異なる事を平気で行っている。嘘の訴えも平気で行ってしまっている事となる。これほどまでに信用できない者がいたのだろうか。
こんな輩に国政に進出してもらいたいなどとは一切思えないし、もしも国政進出をし権力を握らせる事となれば、日本の経済や社会は壊滅へと向かう事となるのではないか。
民主は橋下の発言をどの様に捉えているのか知らないが、日本維新の会がどれだけの当選者を出そうともどの政党もこの様な政党と結合しようなどとは一切思ってはもらいたくは無いし、行動してもらいたくは無い。
絶対に御免だ。
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自分はイザにもブログを書いていたんだが、ある事をきっかけとして書こうとする意識は全く薄れ、今は時々かなり気が向いた時にだけイザにもブログを書いているんだけど、今年の4月に石原が突然に尖閣諸島を購入すると発言した時に、それに対する自分の思う事をそのまま書いた事がある。
それに対し書く意識を薄れさせられるきっかけとなったコメントがあった。
最初は適当に交わそうと思ってたんだが、しつこく書いてくる。しかも不理解な事まで書いてくる。その事に答えてくれと求めたが、無視され一方的に書いてくる。
この人物が今日は高知新聞の記事を取り上げ、自由に思うがままに書いていた。だから自分も自由に書こうと思い、イザにはすでに投降しているが、だけでなく他のブログにも投降しようと決断したんだが。
以下はイザに投降した事と同じ内容。
高知新聞が昨日の朝刊の「小社会」という部分に、現在の尖閣諸島をめぐる両国の若者の感情を危惧する事が書かれているのではないかと思われるが、読む者により意見は異なる。
因みにダブルシンクとはWekipediaによれば「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」という事らしい。
下記に引用する小社会がどの様に「相反し合う二つの意見」となっているのだろうか。
昨日の長官の「小社会」に書かれていた内容は、
-引用ー
短文投稿サイトに「対日宣戦」という物騒な文字が躍る。激化した中国の反日デモを、きのうの朝刊が伝えていた。若い世代の口からいとも軽く出る「戦争」の2文字に気がふさぐ。
そんな折、「文芸春秋」10月号に載った、文芸ジャーナリスト佐久間文子さんの一文が目に留まった。題は「文豪たちが名教師だった頃」。夏目漱石や石川啄木らの教師時代とともに、大正期に横須賀の海軍機関学校で英語を教えた芥川龍之介に光を当てている。
ある時、講義を早めに切り上げた芥川教官が言った。「君たちは勝つことばかり教わって、敗(ま)けることを少しも教わらない。戦争は勝っても負けても同じで、多くの国民が悲惨な思いをする」。ついたあだ名が「敗戦教官」。
大学卒業後すぐに文壇デビューした芥川の、若々しく知性的な戦争観だ。生徒から「小説は人生にとって必要ですか」と質問された。すると間髪入れず、「小説と戦争とどっちが人生にとって必要です?」と聞き返した。
学校には芥川のような文官と、武官の教官がいた。ある教え子は、「重い漬物石のような武官教官の中にピンポン玉のように軽くはねかえる若い教官を迎えたうれしさ」を書き記している。
日本のネット上にも好戦的な言葉や、相手に対する聞くに堪えない誹謗(ひぼう)中傷があふれている。ささくれだった若い世代の心は、未来を危うくする。海を隔てた双方に芥川教官は出ないものか。
(高知新聞2012/09/20)
-引用-
戦前の日本は帝国主義とされていたが、同時に軍国主義ではなかったのだろうか。だが戦前の日本は民主主義だったと主張する者も多く存在している。
しかし、第一次内閣より軍部の者が閣僚に多く含まれていた事は間違いは無い。明治初頭より、軍部が確実な権力を得ていた事は間違いないのではないのだろうか。
現在の中国は共産党一党体制となっており、その中でも軍部が大きな権力を得ているのではないかと思われるが。
「小社会」で、目に留まったとされる文芸春秋の題が「文豪達が名教師だった頃」とされている。
漱石は東京帝国大学卒業後に松山や熊本で英語の教員を行っていたらしいし、啄木も東京で代用教員を行っていたらしい。
そして佐久間文子さんの書いた「文豪が名教師だった頃」では海軍機関学校で英語の教師を行っていた芥川龍之介に光が当てられた、とされている。
戦前に存在していた海軍機関学校、或いは陸軍士官学校では軍師となるべき教育、更には戦争の戦い方や勝つにはどうすべきかなどばかりを教えられていたのかもしれない。
この事を龍之介はどの様に意識していたのだろうか。龍之介は学生達に言った、というよりも問うたのではなかったかと思えるが、「君たちは勝つことばかり教わって、敗(ま)けることを少しも教わらない。戦争は勝っても負けても同じで、多くの国民が悲惨な思いをする」。
戦争を行っても勝った国は何らかの益を得る事となるかもしれない。だが、戦争を行うという事は多くの国民が犠牲とされてしまう。
徴兵された者達は戦場に送られる。そして多くの戦死者が発生する事となる。
佐久間文子さん氏が当時の海軍機関学校をどの様に書いていたのか「文芸春秋」は読んでいないので、自分には分らない。
ただ、龍之介の言葉に光を当てられていたという事は、戦争を行う事は国民にとって、世界にとって全く意味の無い事であったと訴えているのかもしれない。
また記事には龍之介の様な文官と武官が存在していたとし、学生達は両者を「重い漬物石のような武官教官の中にピンポン玉のように軽くはねかえる若い教官を迎えたうれしさ」と例えている。面白い表現をしているなと思えるが。
この記事は、最初の部分と終盤で「小社会」に表そうとしている事が書かれているではないか。
「激化した中国の反日デモを、きのうの朝刊が伝えていた。若い世代の口からいとも軽く出る『戦争』の2文字に気がふさぐ。」と、そして終盤に「日本のネット上にも好戦的な言葉や、相手に対する聞くに堪えない誹謗(ひぼう)中傷があふれている。ささくれだった若い世代の心は、未来を危うくする。」と。
そして最後に「海を隔てた双方に芥川教官は出ないものか。」と書かれてある。
日中の現代の若者達に戦争の体験などありはしないだろう。感情が舞い上がる戦争体験の無い若者達、またそれ以外の年代の者達も含め、舞い上がる感情がそれぞれに戦いを求める様になっているのかもしれない。こういった事に「気がふさぐ」と表されている。
両国にとって、これからの世代がこの様な意識を持つ事を憂鬱な現状と捉えていないだろうか。
故に龍之介の学生達への言葉、学生達の質問に対する質問が綴られているのではないのだろうか。
日中のこれからの世代が相手国に対し常に強い敵対心と激しい感情を高めていく様な事となれば、将来の日中間では非常に危険な状況へと発展するのかもしれない。
故に、中国だけでは無い、日本にも戦争、或いは争いが何も価値をもたらす事の無い行動だと訴える者が現れる事を望んでいるのではないのだろうか。
その為に「ささくれだった若い世代の心は、未来を危うくする。」と表しているのだろう。
そして「海を隔てた双方に芥川教官は出ないものか。」とは、両国のこれからの世代にただ感情を高ぶらせるだけでは無く冷静になってもらいたい。
石原都知事を発端とする尖閣諸島をネックとする日中間の激しい争いが2国の将来に何をもたらす事となるのか、感情的ではなく冷静に考える様にしなければならない。
だが、両国の国民の感情を高ぶらせ敵対心を強くさせていっているのは結局は両国の政府。現段階では「芥川教官」となる事など全く不可能だろうな。
果たして、これからの日中はどの様な関係となっていくのだろうか。
それに対し書く意識を薄れさせられるきっかけとなったコメントがあった。
最初は適当に交わそうと思ってたんだが、しつこく書いてくる。しかも不理解な事まで書いてくる。その事に答えてくれと求めたが、無視され一方的に書いてくる。
この人物が今日は高知新聞の記事を取り上げ、自由に思うがままに書いていた。だから自分も自由に書こうと思い、イザにはすでに投降しているが、だけでなく他のブログにも投降しようと決断したんだが。
以下はイザに投降した事と同じ内容。
高知新聞が昨日の朝刊の「小社会」という部分に、現在の尖閣諸島をめぐる両国の若者の感情を危惧する事が書かれているのではないかと思われるが、読む者により意見は異なる。
因みにダブルシンクとはWekipediaによれば「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」という事らしい。
下記に引用する小社会がどの様に「相反し合う二つの意見」となっているのだろうか。
昨日の長官の「小社会」に書かれていた内容は、
-引用ー
短文投稿サイトに「対日宣戦」という物騒な文字が躍る。激化した中国の反日デモを、きのうの朝刊が伝えていた。若い世代の口からいとも軽く出る「戦争」の2文字に気がふさぐ。
そんな折、「文芸春秋」10月号に載った、文芸ジャーナリスト佐久間文子さんの一文が目に留まった。題は「文豪たちが名教師だった頃」。夏目漱石や石川啄木らの教師時代とともに、大正期に横須賀の海軍機関学校で英語を教えた芥川龍之介に光を当てている。
ある時、講義を早めに切り上げた芥川教官が言った。「君たちは勝つことばかり教わって、敗(ま)けることを少しも教わらない。戦争は勝っても負けても同じで、多くの国民が悲惨な思いをする」。ついたあだ名が「敗戦教官」。
大学卒業後すぐに文壇デビューした芥川の、若々しく知性的な戦争観だ。生徒から「小説は人生にとって必要ですか」と質問された。すると間髪入れず、「小説と戦争とどっちが人生にとって必要です?」と聞き返した。
学校には芥川のような文官と、武官の教官がいた。ある教え子は、「重い漬物石のような武官教官の中にピンポン玉のように軽くはねかえる若い教官を迎えたうれしさ」を書き記している。
日本のネット上にも好戦的な言葉や、相手に対する聞くに堪えない誹謗(ひぼう)中傷があふれている。ささくれだった若い世代の心は、未来を危うくする。海を隔てた双方に芥川教官は出ないものか。
(高知新聞2012/09/20)
-引用-
戦前の日本は帝国主義とされていたが、同時に軍国主義ではなかったのだろうか。だが戦前の日本は民主主義だったと主張する者も多く存在している。
しかし、第一次内閣より軍部の者が閣僚に多く含まれていた事は間違いは無い。明治初頭より、軍部が確実な権力を得ていた事は間違いないのではないのだろうか。
現在の中国は共産党一党体制となっており、その中でも軍部が大きな権力を得ているのではないかと思われるが。
「小社会」で、目に留まったとされる文芸春秋の題が「文豪達が名教師だった頃」とされている。
漱石は東京帝国大学卒業後に松山や熊本で英語の教員を行っていたらしいし、啄木も東京で代用教員を行っていたらしい。
そして佐久間文子さんの書いた「文豪が名教師だった頃」では海軍機関学校で英語の教師を行っていた芥川龍之介に光が当てられた、とされている。
戦前に存在していた海軍機関学校、或いは陸軍士官学校では軍師となるべき教育、更には戦争の戦い方や勝つにはどうすべきかなどばかりを教えられていたのかもしれない。
この事を龍之介はどの様に意識していたのだろうか。龍之介は学生達に言った、というよりも問うたのではなかったかと思えるが、「君たちは勝つことばかり教わって、敗(ま)けることを少しも教わらない。戦争は勝っても負けても同じで、多くの国民が悲惨な思いをする」。
戦争を行っても勝った国は何らかの益を得る事となるかもしれない。だが、戦争を行うという事は多くの国民が犠牲とされてしまう。
徴兵された者達は戦場に送られる。そして多くの戦死者が発生する事となる。
佐久間文子さん氏が当時の海軍機関学校をどの様に書いていたのか「文芸春秋」は読んでいないので、自分には分らない。
ただ、龍之介の言葉に光を当てられていたという事は、戦争を行う事は国民にとって、世界にとって全く意味の無い事であったと訴えているのかもしれない。
また記事には龍之介の様な文官と武官が存在していたとし、学生達は両者を「重い漬物石のような武官教官の中にピンポン玉のように軽くはねかえる若い教官を迎えたうれしさ」と例えている。面白い表現をしているなと思えるが。
この記事は、最初の部分と終盤で「小社会」に表そうとしている事が書かれているではないか。
「激化した中国の反日デモを、きのうの朝刊が伝えていた。若い世代の口からいとも軽く出る『戦争』の2文字に気がふさぐ。」と、そして終盤に「日本のネット上にも好戦的な言葉や、相手に対する聞くに堪えない誹謗(ひぼう)中傷があふれている。ささくれだった若い世代の心は、未来を危うくする。」と。
そして最後に「海を隔てた双方に芥川教官は出ないものか。」と書かれてある。
日中の現代の若者達に戦争の体験などありはしないだろう。感情が舞い上がる戦争体験の無い若者達、またそれ以外の年代の者達も含め、舞い上がる感情がそれぞれに戦いを求める様になっているのかもしれない。こういった事に「気がふさぐ」と表されている。
両国にとって、これからの世代がこの様な意識を持つ事を憂鬱な現状と捉えていないだろうか。
故に龍之介の学生達への言葉、学生達の質問に対する質問が綴られているのではないのだろうか。
日中のこれからの世代が相手国に対し常に強い敵対心と激しい感情を高めていく様な事となれば、将来の日中間では非常に危険な状況へと発展するのかもしれない。
故に、中国だけでは無い、日本にも戦争、或いは争いが何も価値をもたらす事の無い行動だと訴える者が現れる事を望んでいるのではないのだろうか。
その為に「ささくれだった若い世代の心は、未来を危うくする。」と表しているのだろう。
そして「海を隔てた双方に芥川教官は出ないものか。」とは、両国のこれからの世代にただ感情を高ぶらせるだけでは無く冷静になってもらいたい。
石原都知事を発端とする尖閣諸島をネックとする日中間の激しい争いが2国の将来に何をもたらす事となるのか、感情的ではなく冷静に考える様にしなければならない。
だが、両国の国民の感情を高ぶらせ敵対心を強くさせていっているのは結局は両国の政府。現段階では「芥川教官」となる事など全く不可能だろうな。
果たして、これからの日中はどの様な関係となっていくのだろうか。
橋下が昨日に続き、今日も面白いというよりも馬鹿げた発言をしているな。
昨日は、産経新聞の電子版に載せられていたが、竹島や尖閣諸島問題により日韓・日中関係が厳しくなってきているが、これに関し「中国、韓国が何を怒っているのか、しっかり過去の戦争を総括すべきだ。恨みを持たれてもしょうがないこともある」と発言している。
どの戦争の統括をしろと言っているのか知らないが、日本は中国とは戦争を行っているのかもしれない。だが、韓国とは戦争など行っていないだろう。ただ、安土・桃山時代には秀吉が朝鮮半島へ兵を送った事はあったのかもしれないが。
そして昨日の橋下の発言から強く怒りを感じさせられたのが「日本人はアジアの歴史をあまりにも知らな過ぎる。今の日本の体たらくが、竹島、尖閣の問題に結び付いている」の発言。
橋下は日本人じゃないのか。朝鮮人、或いは中国の者だったのか。
アジアの歴史というよりも、日中・日韓に関する過去からの関わりを橋下自身がどれだけ把握しているのか。非常に疑問に思えてならないね。
ただ、政府を批判しようとして適当に喋っていたとしか思えない。その為には、同胞である筈の日本人も馬鹿にする発言を平気で行う事が出来る。どの様な神経をしているのか、全く理解できない。
そして昨日夜の発言だった様だが、日本維新の会の党規約に「企業・団体献金の受け取り禁止を明記する事を明らかとした」らしい。だが、「党や党所属議員がパーティー券を企業・団体に売ることは当面認める方針だ」という事らしいじゃないか。
要するに政治資金パーティーは許すという事だろう。これって矛盾してないだろうか。
政治資金パーティーは政治団体で行わなければならないらしい。政治団体といっても決して政党のみが行うことを許されている事では無く、政党内のグループによる開催も認められているんだろうな。
もしも維新の会にも複数のグループが存在するなら、それらのグループで行うことが出来るのかもしれない。だが、その様な物は存在しないだろう。
維新の会で政治資金パーティーを行う事が出来るのは橋下に限られる事となるのではないのだろうか。だが橋下は企業・団体献金の受け取りを行ってはならないと党規約するとしている筈だ。
なのに、「パーティー券を企業・団体に売ることは当面認める方針だ」としているが、売るという事は買ってもらうという事だろう。
維新の会や党員が行う政治資金パーティーに参加する人々の限度などは一切定めていない。より多くの人々に参加してもらいたい、より多くの献金を行ってもらいたいとしているのだろう。
しかもだ、橋下は規約の中に企業・団体献金の禁止を明記したんだろう。
その橋下が、ツイッターに「政治資金パーティーなんですから、飲食代とパーティー券の差額は政治資金になります。献金と同じです。僕も外国人の知人に政治資金パーティーに来てもらっています。外国人だと認識しています。外国人からの献金がダメというなら、政治資金パーティもダメなんでしょうね。」などと書いている。
だが、弁護士でもある橋下であるなら政治資金規制法の事などしっかりと把握しているんじゃないのか。
政治資金規正法によれば二十二条の五により外国人からの寄付の禁止がされているらしい。
この程度の事など法に詳しいだろう橋下なら最初から理解しきっている事だったんじゃないのか。政治資金パーティーとやらに外国人が参加しても意味が無いのではないのか。
まして、外国人の参加は少ないんじゃないのか。どころか、やはり橋下と繋がりのある団体や企業などから多くの者が参加するんじゃないだろうか。それら多くの者にパーティー券が購入され、橋本に多くの献金がされる事となってしまう。
だがWikipediaでは、橋下は「外国人が券を購入することに禁止規定はない。政党・政治団体に入党・会員登録して党費・会費を納める事と同様である。橋下徹はこの点を利用して、相手が外国人だと意識した上で、パーティー券発売による政治資金調達を行っていることを公言している」ともされている。
政治資金規正法の第四条には「この法律において「収入」とは、金銭、物品その他の財産上の利益の収受で、第八条の三各号に掲げる方法による運用のために供与し、又は交付した金銭等(金銭その他政令で定める財産上の利益をいう。以下同じ。)の当該運用に係る当該金銭等に相当する金銭等の収受以外のものをいう。」更に第八条の2には「政治資金パーティー(対価を徴収して行われる催物で、当該催物の対価に係る収入の金額から当該催物に要する経費の金額を差し引いた残額を当該催物を開催した者又はその者以外の者の政治活動(選挙運動を含む。これらの者が政治団体である場合には、その活動)に関し支出することとされているものをいう。以下同じ。)は、政治団体によつて開催されるようにしなければならない。」とある。
企業・団体献金を禁止するのであれば、政治資金パーティーも禁止のその枠に加えなければならないのではないのだろうか。
党の規約には「企業・団体献金を禁止する」と明記しておきながら、企業・団体献金を求める為に開催するだろう政治資金パーティーは許すとしてある。
しかも維新の会で政治資金パーティーなど実行できるのは橋下のみではないのか。政党代表として行い、維新の会の資産を求めようとしているのかもしれない。この事に大きな矛盾が感じられてならないのだが。
弁護士でもあり法に詳しい者であるだろう橋下は、規約には「企業・団体献金を禁止する」としながら政治資金パーティーは許すとする事をどの様に意識しているのだろうか。
橋下は日本維新の会は既成政党とは異なる政党である事を主張しようとしているらしい。
だが、「企業・団体献金を禁止する」と綺麗事を主張しながら、実際には既成政党と同じく政治資金パーティーを認める、或いは許すとしている。結局は、綺麗事を抜かしながら既成政党と同じ事を実行しようとしているに過ぎない。
どこまでも呆れた者だ。
昨日は、産経新聞の電子版に載せられていたが、竹島や尖閣諸島問題により日韓・日中関係が厳しくなってきているが、これに関し「中国、韓国が何を怒っているのか、しっかり過去の戦争を総括すべきだ。恨みを持たれてもしょうがないこともある」と発言している。
どの戦争の統括をしろと言っているのか知らないが、日本は中国とは戦争を行っているのかもしれない。だが、韓国とは戦争など行っていないだろう。ただ、安土・桃山時代には秀吉が朝鮮半島へ兵を送った事はあったのかもしれないが。
そして昨日の橋下の発言から強く怒りを感じさせられたのが「日本人はアジアの歴史をあまりにも知らな過ぎる。今の日本の体たらくが、竹島、尖閣の問題に結び付いている」の発言。
橋下は日本人じゃないのか。朝鮮人、或いは中国の者だったのか。
アジアの歴史というよりも、日中・日韓に関する過去からの関わりを橋下自身がどれだけ把握しているのか。非常に疑問に思えてならないね。
ただ、政府を批判しようとして適当に喋っていたとしか思えない。その為には、同胞である筈の日本人も馬鹿にする発言を平気で行う事が出来る。どの様な神経をしているのか、全く理解できない。
そして昨日夜の発言だった様だが、日本維新の会の党規約に「企業・団体献金の受け取り禁止を明記する事を明らかとした」らしい。だが、「党や党所属議員がパーティー券を企業・団体に売ることは当面認める方針だ」という事らしいじゃないか。
要するに政治資金パーティーは許すという事だろう。これって矛盾してないだろうか。
政治資金パーティーは政治団体で行わなければならないらしい。政治団体といっても決して政党のみが行うことを許されている事では無く、政党内のグループによる開催も認められているんだろうな。
もしも維新の会にも複数のグループが存在するなら、それらのグループで行うことが出来るのかもしれない。だが、その様な物は存在しないだろう。
維新の会で政治資金パーティーを行う事が出来るのは橋下に限られる事となるのではないのだろうか。だが橋下は企業・団体献金の受け取りを行ってはならないと党規約するとしている筈だ。
なのに、「パーティー券を企業・団体に売ることは当面認める方針だ」としているが、売るという事は買ってもらうという事だろう。
維新の会や党員が行う政治資金パーティーに参加する人々の限度などは一切定めていない。より多くの人々に参加してもらいたい、より多くの献金を行ってもらいたいとしているのだろう。
しかもだ、橋下は規約の中に企業・団体献金の禁止を明記したんだろう。
その橋下が、ツイッターに「政治資金パーティーなんですから、飲食代とパーティー券の差額は政治資金になります。献金と同じです。僕も外国人の知人に政治資金パーティーに来てもらっています。外国人だと認識しています。外国人からの献金がダメというなら、政治資金パーティもダメなんでしょうね。」などと書いている。
だが、弁護士でもある橋下であるなら政治資金規制法の事などしっかりと把握しているんじゃないのか。
政治資金規正法によれば二十二条の五により外国人からの寄付の禁止がされているらしい。
この程度の事など法に詳しいだろう橋下なら最初から理解しきっている事だったんじゃないのか。政治資金パーティーとやらに外国人が参加しても意味が無いのではないのか。
まして、外国人の参加は少ないんじゃないのか。どころか、やはり橋下と繋がりのある団体や企業などから多くの者が参加するんじゃないだろうか。それら多くの者にパーティー券が購入され、橋本に多くの献金がされる事となってしまう。
だがWikipediaでは、橋下は「外国人が券を購入することに禁止規定はない。政党・政治団体に入党・会員登録して党費・会費を納める事と同様である。橋下徹はこの点を利用して、相手が外国人だと意識した上で、パーティー券発売による政治資金調達を行っていることを公言している」ともされている。
政治資金規正法の第四条には「この法律において「収入」とは、金銭、物品その他の財産上の利益の収受で、第八条の三各号に掲げる方法による運用のために供与し、又は交付した金銭等(金銭その他政令で定める財産上の利益をいう。以下同じ。)の当該運用に係る当該金銭等に相当する金銭等の収受以外のものをいう。」更に第八条の2には「政治資金パーティー(対価を徴収して行われる催物で、当該催物の対価に係る収入の金額から当該催物に要する経費の金額を差し引いた残額を当該催物を開催した者又はその者以外の者の政治活動(選挙運動を含む。これらの者が政治団体である場合には、その活動)に関し支出することとされているものをいう。以下同じ。)は、政治団体によつて開催されるようにしなければならない。」とある。
企業・団体献金を禁止するのであれば、政治資金パーティーも禁止のその枠に加えなければならないのではないのだろうか。
党の規約には「企業・団体献金を禁止する」と明記しておきながら、企業・団体献金を求める為に開催するだろう政治資金パーティーは許すとしてある。
しかも維新の会で政治資金パーティーなど実行できるのは橋下のみではないのか。政党代表として行い、維新の会の資産を求めようとしているのかもしれない。この事に大きな矛盾が感じられてならないのだが。
弁護士でもあり法に詳しい者であるだろう橋下は、規約には「企業・団体献金を禁止する」としながら政治資金パーティーは許すとする事をどの様に意識しているのだろうか。
橋下は日本維新の会は既成政党とは異なる政党である事を主張しようとしているらしい。
だが、「企業・団体献金を禁止する」と綺麗事を主張しながら、実際には既成政党と同じく政治資金パーティーを認める、或いは許すとしている。結局は、綺麗事を抜かしながら既成政党と同じ事を実行しようとしているに過ぎない。
どこまでも呆れた者だ。
自民党総裁選に立候補している5人が、一寸した事でも注目される様になっているようだ。どの様な政策施工を持っているか、行おうと意識しているかなどでは無く、5人全員が「世襲議員」という事にも注目されているらしい。
政治家の世襲といえば、政権交代前にマスコミと野党等によりねじれ国会となった安部政権から活発に批判する様になっていなかったろうか。
世襲議員なら親の跡継ぎとして簡単に当選する事ができる。裕福な生活を送ってきただろう世襲議員には国民の生活苦など理解できないだろう。世襲議員に政治家としての高い資質を持つ者など存在していない。そして有能な者はいない。
だから、閣僚に多くの世襲議員が採用されていた内閣などは、ただそれだけでマスコミや激しく批判をされていたのではなかったろうか。
その様な批判が執拗に報じられる事により、多くの国民は世襲議員へ醜悪な意識を強くもたらされる事となっていたのではないだろうか。故に、政治家の世襲は許されないといったイメージが広がり、それが正当な考え方とされる様になっていった。
だが、親も政治家を行っていた世襲議員とされる政治家は果たしてどの様な成長を行っていたのだろう。
確かに、親の活動を活発に見せられる事になっていた事は間違いないだろう。だからといって自分も同じ事を職に就かなければならないと意識していた者は果たしてどれだけいたのだろう。
議員の子供達が全てその様な意識を持っていた事などは無いのではないか。
世襲議員とされるどの議員も、親とは異なる時代を行きている。どの国会議員も親とは異なる一人の個人として成長している筈だ。
そしてどの職を目指すかを判断するのも、決定するのも親では無く一人の個人ではなかったのではないかと思われるが。
そして、自分も政治の世界で活躍したいと意識した者達が親とは異なる一人の個人として政治家となる事を求め立候補するのだろう。
世襲議員だからといって衆院・参院総選挙に立候補すれば即座に確実になれると決められている事では無い筈だ。他の立候補者と競い合う様に政治への思いを有権者に対し積極的に訴えなければならない。その訴えを聞き取り、どの立候補者を政治家とすべきか判断を下すのは有権者なのだから。
だが、その有権者の中にはこれまで応援していた議員の息子だから同じ様にやってくれるかもしれないといった軽はずみな意識から選択しているのかもしれないし、逆に世襲議員というだけで大した事は無い。政治家として信頼できないと嫌っている有権者もいるのかもしれない。
しかし、世襲だから政治家として無能だ、世襲で無いから政治家として有能だと判断する事は非常に可笑しな事ではないのだろうか。政治家としての資質が高いか否かに世襲であるか否かなど一切関係無いと思われてならないが。
何よりも政治家を選択する権限は有権者に有る。
有権者は立候補者からの政治家の選択には、新人であれ複数回当選している者であれ意識しなければならないのはどの政党からの立候補しているのか。新人であれば立候補するまでの経歴であり、どの様な政治家となる事を目指しているのか。
複数回当選している者であれば、これまでにどの様な実績を残し政治活動を行ってきていたのか。地方では無い、国の為に信頼できる活動を行ってくれるのだろうかなどを判断し選択しなければならないのではないかと思われるが。この選択に、世襲であるか否かなどといった意識は一切必要ない。
世襲であるか否かにより選択するという事は、イメージだけで判断しているのであり有権者として非常に無責任な行動を行っているのではないか。
有権者に求められる事は、国の為に、そして我々国民の生活の為にしっかりとした政治活動を行ってくれるだろうと思える者を選択する事ではないかと思われるが。
マスコミだけでは無い。国民の中にも、日本の社会・経済状況を悪化させていったのは政治家だとして政治家ばかりに責任を負わせる者が多くいるのではないだろうか。
だが、現在の政権を誕生させたのも有権者であり、政権交代以前の内閣が行っていた政策をマスコミや野党に釣られるように批判を繰り返し追い詰めていっていたのは有権者なのではなかったか。
有権者には政治家の選択だけでは無い、選択した政権の内閣がどの様な政策を行い日本をどの様にしているのか、マスコミなどに釣られるのでは無く、自分自身で客観的に考察しなければならない責任がある筈。だが、政治に関し責任ある行動をこれまでの有権者はどれだけ行ってきていたのだろうか。
ただ世間の流れに合わせ、適当に行動してきていただけではないのだろうか。主権者であり、有権者である国民にその様な無責任な行動などは許される事では無い。有権者としての責任をしっかりとしっかりと意識し行動しなければならない。
自民党総裁選からは、政権交代前には激しく批判されていた世襲議員から新たな総裁が選択される事は間違いない。だがその様な事など一切意識する事無く、その後に行われるだろう衆議院選で、全ての政党総裁・代表がどの様な指導力を見せ政党としてどの様な政策を訴えようとするのかの考察と吟味をしっかりと行い、政党と立候補者を選択しなければならない。
新たな政権政党の本は国民にあり、これからの日本をどの様に動かしていくのか、変えていくのか、その責任は政治家だけにあるのでは無い。根本的な責任はそれら政治家と政党を選択した有権者である国民にあるのだから。
政治家の世襲といえば、政権交代前にマスコミと野党等によりねじれ国会となった安部政権から活発に批判する様になっていなかったろうか。
世襲議員なら親の跡継ぎとして簡単に当選する事ができる。裕福な生活を送ってきただろう世襲議員には国民の生活苦など理解できないだろう。世襲議員に政治家としての高い資質を持つ者など存在していない。そして有能な者はいない。
だから、閣僚に多くの世襲議員が採用されていた内閣などは、ただそれだけでマスコミや激しく批判をされていたのではなかったろうか。
その様な批判が執拗に報じられる事により、多くの国民は世襲議員へ醜悪な意識を強くもたらされる事となっていたのではないだろうか。故に、政治家の世襲は許されないといったイメージが広がり、それが正当な考え方とされる様になっていった。
だが、親も政治家を行っていた世襲議員とされる政治家は果たしてどの様な成長を行っていたのだろう。
確かに、親の活動を活発に見せられる事になっていた事は間違いないだろう。だからといって自分も同じ事を職に就かなければならないと意識していた者は果たしてどれだけいたのだろう。
議員の子供達が全てその様な意識を持っていた事などは無いのではないか。
世襲議員とされるどの議員も、親とは異なる時代を行きている。どの国会議員も親とは異なる一人の個人として成長している筈だ。
そしてどの職を目指すかを判断するのも、決定するのも親では無く一人の個人ではなかったのではないかと思われるが。
そして、自分も政治の世界で活躍したいと意識した者達が親とは異なる一人の個人として政治家となる事を求め立候補するのだろう。
世襲議員だからといって衆院・参院総選挙に立候補すれば即座に確実になれると決められている事では無い筈だ。他の立候補者と競い合う様に政治への思いを有権者に対し積極的に訴えなければならない。その訴えを聞き取り、どの立候補者を政治家とすべきか判断を下すのは有権者なのだから。
だが、その有権者の中にはこれまで応援していた議員の息子だから同じ様にやってくれるかもしれないといった軽はずみな意識から選択しているのかもしれないし、逆に世襲議員というだけで大した事は無い。政治家として信頼できないと嫌っている有権者もいるのかもしれない。
しかし、世襲だから政治家として無能だ、世襲で無いから政治家として有能だと判断する事は非常に可笑しな事ではないのだろうか。政治家としての資質が高いか否かに世襲であるか否かなど一切関係無いと思われてならないが。
何よりも政治家を選択する権限は有権者に有る。
有権者は立候補者からの政治家の選択には、新人であれ複数回当選している者であれ意識しなければならないのはどの政党からの立候補しているのか。新人であれば立候補するまでの経歴であり、どの様な政治家となる事を目指しているのか。
複数回当選している者であれば、これまでにどの様な実績を残し政治活動を行ってきていたのか。地方では無い、国の為に信頼できる活動を行ってくれるのだろうかなどを判断し選択しなければならないのではないかと思われるが。この選択に、世襲であるか否かなどといった意識は一切必要ない。
世襲であるか否かにより選択するという事は、イメージだけで判断しているのであり有権者として非常に無責任な行動を行っているのではないか。
有権者に求められる事は、国の為に、そして我々国民の生活の為にしっかりとした政治活動を行ってくれるだろうと思える者を選択する事ではないかと思われるが。
マスコミだけでは無い。国民の中にも、日本の社会・経済状況を悪化させていったのは政治家だとして政治家ばかりに責任を負わせる者が多くいるのではないだろうか。
だが、現在の政権を誕生させたのも有権者であり、政権交代以前の内閣が行っていた政策をマスコミや野党に釣られるように批判を繰り返し追い詰めていっていたのは有権者なのではなかったか。
有権者には政治家の選択だけでは無い、選択した政権の内閣がどの様な政策を行い日本をどの様にしているのか、マスコミなどに釣られるのでは無く、自分自身で客観的に考察しなければならない責任がある筈。だが、政治に関し責任ある行動をこれまでの有権者はどれだけ行ってきていたのだろうか。
ただ世間の流れに合わせ、適当に行動してきていただけではないのだろうか。主権者であり、有権者である国民にその様な無責任な行動などは許される事では無い。有権者としての責任をしっかりとしっかりと意識し行動しなければならない。
自民党総裁選からは、政権交代前には激しく批判されていた世襲議員から新たな総裁が選択される事は間違いない。だがその様な事など一切意識する事無く、その後に行われるだろう衆議院選で、全ての政党総裁・代表がどの様な指導力を見せ政党としてどの様な政策を訴えようとするのかの考察と吟味をしっかりと行い、政党と立候補者を選択しなければならない。
新たな政権政党の本は国民にあり、これからの日本をどの様に動かしていくのか、変えていくのか、その責任は政治家だけにあるのでは無い。根本的な責任はそれら政治家と政党を選択した有権者である国民にあるのだから。
維新の会の松井が、合流する7人の国会議員が次期の衆院総選挙で当選し「維新八策」に反する行動を行った場合には、次の衆院選挙では「みんなで落選させる」と言い切っている様だ。松井の言う「みんな」は維新の会の連中の事なんだろうな。
こいつは馬鹿じゃないのか。国会議員を選択する権限を持っているのは、主権者であり有権者であるある国民だ。政党の執行の連中にその様な権限など無い。
なのに、自分達の言う事を聞かない連中は自分達で落選させると言い切っている。有権者を完全に無視した馬鹿げた発言だ。
大阪維新の会が大阪でやってきた事の本質が出ているんじゃないのか。自分達があらゆる権限を持ち、且つ住民ではなく自分達が実質的な主権者である。故に、誰もが自分達の言いなりにならなければならない。
更に、橋下は呆れた事を言ってたよな。立候補する連中は自分で借金してでも選挙の為の資源を用意しろと。立候補するには1千万位の選挙費用は必要じゃなかったろうかと思うのだが、2千万が必要とする人もいるElectronic Journal。
貧乏人がそんな借金をして国会議員となっても返済できる保障はあるんだろうか。まして、当選できなかった場合には大きな借金をした者達には大きな事態となってしまう。
となると、立候補する者はある程度の資源を自ら持ち得ている者や、スポンサーなど得る事が出来る者に限られる事になるんじゃないだろうか。
要するに全ての者に立候補する権限を与え様とは一切考えてなどいないという事になる。馬鹿げた話だ。
金持ちだったら、資金源との繋がりを持つ者だったら政治家としての資質を必ず持っているとは限らない。
逆にその様な資質など一切無く、単なる馬鹿で単純に政治家への欲を見せているだけに過ぎないのかもしれない。
こんな連中がもしも当選してしまった場合、日本の政治は一体どうなってしまうんだ。政治に関わった事の無い全くのど素人が、国会などで政治家としての活躍がどれだけ出来るというのだ。
政治家というよりも、ただ橋下の言い成りとなり活動するだけの者となるのかもしれない。
現在の国会は基本的には与野党が自分達の主張を掲げ、いい争いをしようとしてるだけの単純な喧嘩の場であり、馬鹿みたいに足を引っ張り合おうとしているだけの場。
そんなとこに維新の会なんてのが入ったら、日本の政治は再編や改革なんかじゃない、ボロボロの状態にされてしまう事は間違いない。
しかも、橋下個人の人気に乗せられて維新の会の議員数を大量に発生させてしまったら、日本から民主主義なんてものは消えてしまうだろう。
全体主義、或いはファシズムとなってしまう事は可能性は高いんじゃないだろうか。
維新の会に乗せられている者達がどの様な意識を持っているのか知らんが、自分はあの様な連中に国会進出などしてもらいたくは無い。ただそう思えてならない。
こいつは馬鹿じゃないのか。国会議員を選択する権限を持っているのは、主権者であり有権者であるある国民だ。政党の執行の連中にその様な権限など無い。
なのに、自分達の言う事を聞かない連中は自分達で落選させると言い切っている。有権者を完全に無視した馬鹿げた発言だ。
大阪維新の会が大阪でやってきた事の本質が出ているんじゃないのか。自分達があらゆる権限を持ち、且つ住民ではなく自分達が実質的な主権者である。故に、誰もが自分達の言いなりにならなければならない。
更に、橋下は呆れた事を言ってたよな。立候補する連中は自分で借金してでも選挙の為の資源を用意しろと。立候補するには1千万位の選挙費用は必要じゃなかったろうかと思うのだが、2千万が必要とする人もいるElectronic Journal。
貧乏人がそんな借金をして国会議員となっても返済できる保障はあるんだろうか。まして、当選できなかった場合には大きな借金をした者達には大きな事態となってしまう。
となると、立候補する者はある程度の資源を自ら持ち得ている者や、スポンサーなど得る事が出来る者に限られる事になるんじゃないだろうか。
要するに全ての者に立候補する権限を与え様とは一切考えてなどいないという事になる。馬鹿げた話だ。
金持ちだったら、資金源との繋がりを持つ者だったら政治家としての資質を必ず持っているとは限らない。
逆にその様な資質など一切無く、単なる馬鹿で単純に政治家への欲を見せているだけに過ぎないのかもしれない。
こんな連中がもしも当選してしまった場合、日本の政治は一体どうなってしまうんだ。政治に関わった事の無い全くのど素人が、国会などで政治家としての活躍がどれだけ出来るというのだ。
政治家というよりも、ただ橋下の言い成りとなり活動するだけの者となるのかもしれない。
現在の国会は基本的には与野党が自分達の主張を掲げ、いい争いをしようとしてるだけの単純な喧嘩の場であり、馬鹿みたいに足を引っ張り合おうとしているだけの場。
そんなとこに維新の会なんてのが入ったら、日本の政治は再編や改革なんかじゃない、ボロボロの状態にされてしまう事は間違いない。
しかも、橋下個人の人気に乗せられて維新の会の議員数を大量に発生させてしまったら、日本から民主主義なんてものは消えてしまうだろう。
全体主義、或いはファシズムとなってしまう事は可能性は高いんじゃないだろうか。
維新の会に乗せられている者達がどの様な意識を持っているのか知らんが、自分はあの様な連中に国会進出などしてもらいたくは無い。ただそう思えてならない。