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韓国は1910年に日韓併合された事を日本が韓国を植民地化したんだと強く非難すると共に、日韓併合は不法だと主張する。竹島に上陸した、李明博は「歴史問題を理解してくれ」などと抜かしていた。19世紀代の大韓民国がどの様な状況にあったのか、どうして日韓併合が成立されたのか、この事をちゃんと理解しているのだろうか。
欧州列挙区の植民地化は1885年より行われるようになってた様だが、朝鮮も清国の属国とされており、全く逆らえない状態となっていただろうし、清国に植民地化されていたとしていいのではないのだろうか。
 
だが1894~95年に行われた日清戦争による下関条約により、清国は朝鮮が完全無欠な独立自主の国である事を確認するとして、清国から開放される事となり、独立国となる。1904~05年に行われた日露戦争では、日本は朝鮮半島を利用しようとしたのだろうか、大韓帝国との間に第1次、2次、3次協約を締結する事となる。そして第2次日韓協約の締結では韓国は日本の保護国となっている。
植民地化は本国が植民地の主権を完全に握る場合と、保護国とに分けられるのではないかと思われるが、主権を完全に握る場合には完全な植民地化だろうし、保護国の場合には領土に加えられたた被保護国は保護国との条約に基づき一部の主権を代行させる事により保護国からの保護を受ける国とされている。主権の代行は外交面が主流の様だが。国際法では半主権国とされているらしいが。
 
韓国は決して主権を全て日本に奪われた状態では無く、半主権国とされていた事となるのではないのだろうか。完全な植民地化をされていたとは思われない。更に、日韓併合を求めたのは大韓帝国の政府であり、逆に日本はそれを好んではいなかったとされている。大韓帝国で日韓併合を強く要望していたのは、帝国内で当時大きな政治力を持っていたらしい政治結社である一進会は日本との合邦を求め、韓日合邦建議書「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」を大韓帝国の両班などにも訴えていたのではなかったか。また、日本にも。
だが、第2次日韓協約が締結された後に韓国に置かれた韓国統監府の初代監督統監に就任した伊藤博文は日韓併合される事を強く拒否していたらしい。伊藤博文は1909年に大韓帝国で暗殺される。この事がきっかけとなり日韓併合へ一気に進む様になったのだろうか。1910年8月22日に「韓国併合に関する条約」に締結され韓国は日本に併合された。
 
この朝鮮併合には、強い批判を持つ者もいる様だ。
 
Afternoon Cafeブログには「前略-加害者側が、被害者側の傷についてあまり深く考えないままそんなに悪意なしに何気なく軽い気持ちで(一部の人々はレイシズムという悪意をもって)口にした言葉は、時として深く被害者側を傷つけることがあります(余談ですが性犯罪なんかそういう事が多いですね)
この「支配する側の支配される側に対する鈍感さ」は、いかなる時代、いかなる場所でも見かけることができます。
 
もし、いくら良い教育や行き届いたインフラを与えて貰ったのだとしても、自分の名前を奪われ祖国の言葉を奪われ意に反してアイデンティティを奪われることがどれほどの民族的屈辱か、支配する側にはそれがなかなか想像できないものかもしれません。
韓国が併合条約は無効だったと主張するのは、民族の誇りとしての問題なのです。」
 
と書かれている。
 
朝鮮民族の現在の主語はハングルなのではないだろうか。だが、併合前の大韓帝国では白丁とされていた庶民には殆ど教育はなされていなかったらしいし、両班とされる貴族に行われていた言葉の教育は清国の影響からか漢字が主流だったらしく、ハングルは軽視されていた。よって、両班の位置にいる者達もハングルの教育はされていなかった様だ。日韓併合される以前の朝鮮民族は、両班(貴族)と白丁(一般民族)に分離されていて、全てを両班が判断し決断し実行する。奴隷化されていたのではないかと思われる白丁と称される一般民族の人々は、両班には一切逆らう事など出来ず、ただ言い成りになるだけだった。
だが、朝鮮総督府は身分の階級を廃止し民族を平等とし、教育を受けることの出来なかった者達にも平等に受けれる体制を作っている。1911年の第1次教育令により、朝鮮語の必修科目としてハングル語が教育される様になる。1936年には日中戦争の影響から朝鮮総督府ではハングルの授業を廃止し、日本語に統一すべきとしたらしいが、言語を一つに統一するという事は行っていなかったらしい。Wikipedia
 
よって現在の韓国、或いは北朝鮮の守護となっているハングルを朝鮮民族に普及していっているのは、大韓帝国では無く朝鮮総督府という事になるのではないか。朝鮮総督府は朝鮮民族の言葉を奪っているとは思えない。逆に一部の者にも教育されていなかったハングルを朝鮮民族の主語としたのは、日本であり朝鮮総督府である事は間違いないだろう。
また、大韓帝国までの朝鮮民族の文化などの守護も朝鮮総督府はおこなっている。
 
両班とされる者達が日韓併合をどの様に意識していたのかは知らない。だが、両班に大きな差別を受け非常に貧しい生活を強いられていた人々はどの様な意識を持っていたのだろう。
日韓併合が行われずに、何ら武力も資材も無くなってしまっていただろう大韓帝国が独立国として進んでいれば、両班の者達は自分達の生活を守る為だけに色々な外交など行っていたのかもしれない。だが、奴隷化されていたとされる民衆達はどの様な生活を強いられる事となっていたのだろうか。
両班とされる者達にとっては、日韓併合は好ましくないと意識されていたのかもしれない。だが、自分達の生活を大きく変化させていった一般の民衆達はどの様な意識を持っていたのだろう。
 
日韓併合により自分達の生活を大きく向上させ、豊とさせて行った日本統合時代よりも主権は一部の者達に握られてしまい、自分達はその者達の言いなりにしかなれなかった併合前に戻る事を求める者達は果たしてどれだけいるのだろうか。
彼等と同じ立場に立った意識で考えてみれば、併合前の生活に満足など出来ている訳など無い。教育を受ける事も出来ていない、まともな生活をする事も出来なかった、ただ苦しい思いばかりを強いられていたのではないか、その様に考えれば併合前の状況から早く開放されたいと思うのではないか。
そして、併合されてみると両班との不平等な立場が解消され、教育を受ける事が出来る様になり、生活も大きく変化し向上して行ったのではないか。
 
併合される以前が良かったと判断すべきか、併合後が良いと判断すべきなのか。併合された事により民族性や文化などでは無く、生活環境を大きく改善させられた事を良いと判断するのではないのだろうか。
言葉は奪われていたのではない。現在の朝鮮の主語となっているハングルの教育されているし、大きな不平等により国民としての主権を認められていなかったのではないかと思われる併合前とは異なり、国民としての主権が認められる様になり、朝鮮民族としての教育や近代国家の教育などが受けられる様になって行ったのではないだろうか。
この様に自分達の貧しい生活を大きく変えて行ってくれたことを、果たして強く不満に感じていたのだろうか。
 
3人目の韓国大統領である朴正煕は、日本統治時代について次ぎの様に語っていたらしい「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」とされている。Wikipedia
 
そして、日韓併合による朝鮮の日本統治時代を象徴する建物ではなかったかと思われる朝鮮総督府。韓国の人々が日韓併合に強い不満を怒りの感情を持っていたのであれば、大韓民国とした独立した直後にでも崩壊させていたのではないかと思われるが。
なぜか、決してその様な事などは行っていない。所か、李奨晩は国会として利用している。信じられない事だ。

李奨晩は日韓併合を強く批判しており、反日派ではなかったのか。であるなら、国会などに利用する事などせず、併合による日本統治時代の象徴の建物である朝鮮総督府などは自国に残そうとはせずに、即座に破壊しなければならないと考える事はなかったのだろうか。
国会がソウルに移転した後にも国立中央博物館として利用されていたらしい。
だが、1996年に金泳三の指示により取り壊されたらしいが、何故か全てを取り壊したのでは無く、先頭の部分は残し、独立記念館に保存されているらしい。
 
朝鮮民族として日韓併合は非常に侮辱に当たる事であり、併合条約は無効であるという強い概念を持っているのであれば、日本統治時代の象徴の建物であろう朝鮮総督府を新たな独立国として利用する、いつまでも残そうとする事には強い不満を怒りを感じる者は誰も無かったのだろうか。
更に、朝鮮総監府の一部を独立記念館に保存する事に疑問と怒りを主張する者はいなかったのだろうか。
 
併合条約を無効だったと強く主張する民族意識を持っているのであれば、主張する事に民族の誇りを持っているのであれば、何も残す事は無く、即座に建物は破壊し何も残そうと意識する事など無かったのではないのだろうか。
そして大韓民国はいつから不法だと主張していたのだろうか。65年の日韓基本条約が成立した時には併合は不法であったと激しく主張していた筈だ。その為に日韓基本条約では日韓併合は無効だとされている。
にも拘らず、朝鮮総督府は96年まで残されていた。強い疑念を感じさせられてしまう。
 
この日韓併合に関しては日韓の学者に会議によっても討論が行われていたらしいが、決着はつかず、2001年の11月16日に、アメリカのハーバード大学のアジアセンター主催で国際学術会議が開かれることになった。
「2001年の11月16日に、アメリカのハーバード大学のアジアセンター主催で国際学術会議が開かれることになった。
 
これは韓国政府傘下の
国際交流財団の財政支援のもとに、
韓国の学者たちの主導で準備されたものだった。
韓国側はもちろん、国際舞台で不法論を確定しようと初めから企図し、
そのために国際学術会議を持ったのであり、それを謝罪と補償の要求の根拠にしたかったことは明白であった。
 
そしてそこにはアメリカ、イギリス、韓国、それから日本の学者が集まり、
日韓併合の歴史をどう考えるかということで論争が行なわれたのである。
 
この様子は、当時、『産経新聞』の2001年11月27日の
記事ぐらいでしか公表されず、一般の目にはほとんど触れなかった。
が、これはとても大きな、重要な会議だったのである。
 
 
韓国側はまず、いかに日本が不法に朝鮮を併合したかということを主張した。
ところが、国際法の専門家でケンブリッジ大学のJ.クロフォード教授が強い合法の主張を行なったのである。
 
それは当時の『産経新聞』の記事によると、
「自分で生きていけない国について周辺の国が
国際秩序の観点からその国を当時取り込むということは当時よくあったことであって、
日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」という主張であった。
 
当然、韓国側はこれに猛反発し、日本に強制されたということを主張したわけだが、
同教授は、「強制されたから不法という議論は第一次大戦(1914~18年)以降のもので、
当時としては問題になるものではない」と、一喝した。」★★★ ニュース保存用 ★★★
 
韓国の主張する日韓併合は不法だとする主張は、世界の学者などからは一切認められる事は無かった。
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