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10日目、バンクーバーから正式種目となったスキークロスの男子へ、日本からは滝沢宏臣だけが出場した。
五輪フリースタイル:最初で最後の大舞台 苦労人・滝沢
http://mainichi.jp/enta/sports/10olympic/freestyle/news/20100222k0000e050025000c.html
バンクーバー冬季五輪で新種目となったフリースタイルスキー・スキークロスの男子が21日(日本時間22日)に行われ、日本代表の滝沢宏臣選手(36)=トーヨータイヤ=は決勝トーナメント1回戦で敗退した。この競技では、日本の草分け的存在といえる滝沢選手は競技後、現役引退を表明した。五輪出場を目指し、スキーのアルペン、モーグルと種目を変えて挑戦してきた苦労人は、最初で最後の大舞台で、波乱の選手生活を終えた。
前の年より体が一回り大きくなり、服のサイズが合わなくなった。万全の状態を作り上げて、五輪シーズンを迎えたはずだった。
ところが、夏に太ももを痛め、ワールドカップ(W杯)転戦中にレース用のスキー板が壊れた。さらに五輪切符を手にした直後の今年1月末、試合中に転倒して右でん部付近を強打した。レントゲンには、右足つけ根の骨に亀裂のようなものが写っていた。「オレは(五輪に)出ちゃだめなの」。思わず、嘆きが口をついた。
しかし幸い、大事には至らず、五輪のスタート台に立てた。「全世界の人が注目する中、国の誇りを懸けて戦っていく。その中に自分がいられるのは光栄だった」
波乱続きのこの1年は、山あり谷ありのスキー人生と重なる。16歳の時、アルペンでナショナルチーム入り。92年アルベールビル大会で、初めて五輪の日本代表候補となった。98年長野大会はモーグルで出場を狙った。しかし、いずれも五輪には届かず、長野後、活動の中心をスキークロスに移し、02~03年にW杯で種目別総合優勝を果たした。
その間、幾度もけがに見舞われた。自身の所属先が決まらず、経済的に苦しんだ時期もあった。年間活動費は200万~300万円。五輪シーズンは支援してくれるスタッフにかかる経費も加わった。愛車を手放したり、失業保険を受けながら競技を続けたこともある。「どうやって借金を返そうかな、ハハハ」
笑顔の裏には、ただ一人の先駆者ゆえの苦しさが隠れている。迷った時にアドバイスを求められないつらさが身に染みた。だから、14年ソチ五輪には「育てる方(指導者)でいきたい。自分が培ってきたものを、若い選手に伝えられるように」。
日本のスキークロスを強くする。滝沢選手の新たな戦いがバンクーバーで始まった。
(毎日新聞2010/02/22)
スキークロスというのは「障害物競走」の様な競技みたいで、ジャンプ台や設置された障害物のコースを4人から6人が同時に滑り、順位を競い合っていく競技らしい。
この競技を女子スキークロスに日本代表として出場する事となっている、福島のり子は「感情移入しやすい種目なので、競馬を見るような感覚で見てもらうのが一番分かりやすい」と語っているらしい。
選手達は雪上で高速で激しい競い合いを展開しているのだろうか、と思わされてしまうのだが。
滝沢選手は2000年からモーグルからスキークロスへ転向したみたいだけど、02-03年から始まるFISワールドカップで初の総合優勝をしている。
本人のサイトに書かれているが、多数の怪我が合っても早期復帰。その怪我の中には、靭帯断裂や、腰椎ヘルニアも含まれているらしい。
怪我をするのは主にシーズン中じゃないかと思うんだが、この選手のスキークロスという競技への思いが、凄く強かったのかもしれない。だから、どんな怪我に合おうと、これまで懸命に向かってきていたんじゃないだろうか。
オリンピックで現役を引退し、これからの若手を育てていこうと思っているらしい。
スキークロスもとても惹かれるウインタースポーツ。今までマイナーだったのかもしれませんが、これからどんどんと始めようとする者達が出てくるんじゃないでしょうか。
本当にしっかりと育てていってもらいたいな、と思います。