思い、そして感じた事をそのまま
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今年も親の虐待が多く発覚したと思うが、それにより殺害された子供達も多くいる。これらの親達は自分の子供達をどの様に意識していたんだろう。
本来なら、とても可愛く感じるはずだし、守りながらしっかりと育てていかなければならないと思うんじゃないかと思うんだが。
虐待する者達には自分達の子供に対する情愛など微塵も無いんだろうな。だから、しつけなどとつまらない言い訳などしながら暴力行為を行う。
自分達に抵抗する事も出来ないと分り切っている子供に対し、虐待・暴力行為を活発に行う。
激しい虐待などされても泣き叫んだりする事によって拒否を示す事は出来ても、体を張っての抵抗など出来る訳が無い。虐待なんて極端ないじめ行為だ。
自分の子に対する親としての意識をしっかりと持っているなら、こんな事など出来る訳が無い。逆に子供達が恐怖心を負わされる事から必死に守ろうと意識するんじゃないか。
それが本当に子供を大事に意識する親の心理だろう。
24日に京都で親の虐待が発覚したらしい。虐待されていた子は、抵抗する事も無くされるがままになっていたのかもしれない。
だが、この子は何時からか分らないけど「110番」を意識してたんだろうか、助けを求める事を。
情愛のかけらも無い親から、日常となってたと思える虐待を受けていた時だったんだろうか、「110番」へ電話をしたみたい。
虐待からの必死の助けを求めたんだろう。その時には泣き声で警察に助けを訴えていたみたいだが。
情愛のかけらも無い親から、日常となってたと思える虐待を受けていた時だったんだろうか、「110番」へ電話をしたみたい。
虐待からの必死の助けを求めたんだろう。その時には泣き声で警察に助けを訴えていたみたいだが。
110番から連絡を受けた子供の住居を管轄とする京都府警東山署の者達ががすぐに駆けつけ、京都市東山区の子供の保護と同時に虐待行為をしていた無職の母親の逮捕をその場で即座に決行したんだろう。
逮捕された親は蕎麦の生地を伸ばすのに利用される麺棒(長さ32㎝、直径3cm)を利用して子供への虐待を行っていたらしい。
麺棒なんて普段の生活で必要な物なんだろうか。逮捕された者が蕎麦の生地など作っていたというのなら分らない事も無いが、麺棒は料理の為の大事な道具の筈だ。
その麺棒は直径3cmと大きな物。
そんな物で叩かれたりすれば、激しい痛みと強い恐怖心が湧いてくるんじゃないか。
大人であっても、麺棒なんて者で暴力を振るわれれば堪ったものでは無い。大人であってもその暴力には屈してしまうかもしれないし、逆に激しい仕返しを行ってしまうかもしれないが。
子供にはその様な抵抗など絶対に不可能だ。
逮捕された母親は「口答えしたのでしつけでたたいた」と取調べに答えているみたいだが、ただ口答えするだけで暴力を振るう必要などあるのか。
麺棒なんて普段の生活で必要な物なんだろうか。逮捕された者が蕎麦の生地など作っていたというのなら分らない事も無いが、麺棒は料理の為の大事な道具の筈だ。
その麺棒は直径3cmと大きな物。
そんな物で叩かれたりすれば、激しい痛みと強い恐怖心が湧いてくるんじゃないか。
大人であっても、麺棒なんて者で暴力を振るわれれば堪ったものでは無い。大人であってもその暴力には屈してしまうかもしれないし、逆に激しい仕返しを行ってしまうかもしれないが。
子供にはその様な抵抗など絶対に不可能だ。
逮捕された母親は「口答えしたのでしつけでたたいた」と取調べに答えているみたいだが、ただ口答えするだけで暴力を振るう必要などあるのか。
誕生させた時から情愛も何も無い、単に邪魔者などと意識していたのなら、自分の子供なのにまるで自分のストレス発散の道具として、自分の傍に置いていたんじゃないか。
そんな自分に罪悪感など全く感じる事など無かったのか。こんな者に親としての資格など一切無い。
しっかり育てようと思い始めた時、子供への情愛を感じられなくなった時から自分の傍に置こうとするのではなく、すぐにでも養護施設などに預ければ良かったじゃないか。
昨日の京都では自ら助けを求める事が出来、救われた子供もいるけど、今日の段階でも親の虐待を日常に受け苦しめられている子供達は多く存在しているだろうし、そんな事を平然と行っている馬鹿な親が多くいる。
子供は本当に大切に育ててもらいたいと思うし、そんな意識が持てないなら施設など子供が安心できる場所に預ける様にしてもらいたい。
だが、虐待する者達にその様な意識を持つ事は難しいかもしれないが。
だが、虐待する者達にその様な意識を持つ事は難しいかもしれないが。
何よりも虐待なんて事が減少していく事を最も強く望みたいんだが。
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2年前のクリスマスの日に群馬県の児童養護施設に10個のランとセルがいつの間にか置かれててプレゼントされていた。伊達直人という名前で。
自分が子供の頃に夢中になってた漫画のタイガーマスクの伊達直人の真似をして行ったんじゃないかなどと報じられていたが、この行為が大きく報じられた事から一つのブームが発生して同じ行為が活発に行われるようになっていた。
時が経つに連れ、伊達直人では無い名称での寄付も行われていたが。
当然同じ人物では無く、報道を見て何かを感じ実行した人々が多くいたんだろう。単にブームに惹かれてやった人もいるだろうが、クリスマスにプレゼントした人と同じ気持ちで行動した人もいたのかもしれない。
今年も福島の乳児院・児童養護施設「白梅学園」に、驚いた事に昨年の1月から伊達直人と名乗る人から3回目の寄付が今月の16日に届いていたらしい。
段ボール箱が2つ置かれていたらしい。一つの段ボール箱にだと思うんだけど、ランドセルが一つ、色鉛筆(12色)、弁当箱5つが入れられていたらしい。
そして、白梅学園の園長によると字体が3回とも同じで同じ人から送られていると判断している様で、「継続して子どもたちを気にかけてもらい、本当にありがたい」と感謝の気持ちを示しているらしい。
これは読売新聞にある記事なんだけど、驚かされたのが一つのブームを発生させたのが昨年のクリスマスがきっかけでタイガーマスク現象ともされる社会現象が発生していたが、それ以前に既に伊達直人による児童養護施設への寄付が行われていた。
と同時に、一つの社会現象に惹かれて同じ事を行っていた人が多かったのかもしれない。
だが、その様な人々だけでは無く、真剣に児童養護施設への寄付行為を行っていた人も存在していたんだなと思わされる。
当時のタイガーマスク減少で寄付行為が活発に行われていたが、この事に関し施設の人々かメディアに関わる者だったのかハッキリ記憶していないが、児童養護施設へ特命により寄付してくれるとしても、事前に問い合わせをしてもらえると嬉しいとされていた。
そうすれば、その寄付行為をより活用する事が出来る。
ほんの一寸した寄付行為でも、施設がより必要とする者を送ってもらえれば施設はより喜ぶ事となると。
だが、実際には問い合わせが必要なんて事など無いんだろうな。
一寸した物でも、施設の児童などの役に立つ物をしっかりと送ってもらえれば、施設だけでは無く施設に暮らす子供達も本当に嬉しく思っているんじゃないだろうか。
一寸した物でも、施設の児童などの役に立つ物をしっかりと送ってもらえれば、施設だけでは無く施設に暮らす子供達も本当に嬉しく思っているんじゃないだろうか。
そういった子供達が喜んでくれる事を嬉しく思いながら、伊達直人と称しながらも寄付行為を行っている。もしかすると児童擁護施設での子供達の生活に詳しい人物なのかもしれない。
だからこそ、子供達が喜んでくれる、子供達の為の物を送る行為を繰り返し行っているのではないだろうか。
だからこそ、子供達が喜んでくれる、子供達の為の物を送る行為を繰り返し行っているのではないだろうか。
衆議院選挙への投票日がいよいよ明日に迫った。これまでのマスコミは政界の悪評を流す事に徹し、有権者の政治への意識を持たせてきていた。
だから有権者は政界は可笑しい、信用できないと自分達の責任を無視し、自分達が選択した政治家による国会の批判ばかりを繰り返していた。
だから有権者は政界は可笑しい、信用できないと自分達の責任を無視し、自分達が選択した政治家による国会の批判ばかりを繰り返していた。
またマスコミなどは官僚政治などと表現する事により、官僚(国家公務員全体では無く、主に1種に占められているらしい。一部の国家公務員)の存在を強く批判する様になり、その報道に誘導されるように有権者も官僚を悪評、悪者と意識する様になり官僚を激しく批判する様になる。
だが、実際に行政の機能を稼動し活用しているのは官僚の筈であり、どの様に行政の稼動を行なうかの指示を行うのは政治家じゃないか。だが世間ではこの政治家が何も出来ていない、官僚に操られているとされているとしている。
ならば国会は何の為にあるのだろう。国会は日本の立法府であり、行政を仕切ったり機能させる法も国会によって成立されている筈だ。
その様に鑑みるなら、行政での機能を任される国家公務員、或いは地方公務員は国会の法により仕切られ稼動させられているのと思われるが。
では官僚は国会議員を手玉に取り、自分達にとって都合のいい様な法案を成立させる行動をしているのか。
確かに法の原案は各省庁も作成しているのかもしれない。それは内閣の補佐機関とされる内閣法制局によって審査される。ここでは非常に厳しく細かいチェックがされるらしい。
よって、全てが法案として国会提出が認められる事では無い。そして国会提出が決定しても国会審議によって成立もすれば否定もされる。
よって、全てが法案として国会提出が認められる事では無い。そして国会提出が決定しても国会審議によって成立もすれば否定もされる。
また議員法案などは衆議院・参議院法制局によって審査されるらしい。法の原案は省庁だけにより作成されているという事は無いし、議員法案も含めてだろうが全ての法案が国会成立するとは限らない。
省庁によって作成された法案は、内閣法制局を通過しても政権与党によって改めて審査され修正される場合もある様だが、ここを通過する事により内閣提出法案として国会提出される。
法案の作成は省庁が完全に行っているわけではないし、法案は省庁や国会議員のために作成されているのでは無く、国民の為に作成されている事は間違いないだろう。
まして国家公務員も地方公務員も国民の一員の筈だ。これは国会議員にも言える事ではないだろうか。彼らも国民の一員である事は間違い無いだろう。
彼らが国民を無視し、公務員や政治家だけに都合のいい法案を成立する事を行っているのであれば、公務員や政治家である前に国民としての自分を苦しめる法案を作成している事になる。そんな馬鹿げた事を行う者が果たして存在するのだろうか。
彼らが国民を無視し、公務員や政治家だけに都合のいい法案を成立する事を行っているのであれば、公務員や政治家である前に国民としての自分を苦しめる法案を作成している事になる。そんな馬鹿げた事を行う者が果たして存在するのだろうか。
官僚とされる上級、或いは一種の国家公務員や政治家などが国家公務員や政治家だけに都合のいい法を作成するという思考も理解する事ができない。国家公務員や政治家などに対する偏向意識としか思われない。
政治は官僚により支配されているというのなら、国会の存在価値など全く無いだろうし、衆参の選挙も行う必要など全くないだろう。
政治家を選択する選挙の意義も存在しているとは思えない。官僚により政治が本当に支配されているというのなら、選挙を行う必要があるとは全く思えない。
政治家を選択する選挙の意義も存在しているとは思えない。官僚により政治が本当に支配されているというのなら、選挙を行う必要があるとは全く思えない。
だが、09年に政権交代が行われてから初期の頃にはマスコミからも有権者からも民主政権を批判し選挙を求める事などなかった。
だが、民主政権が何もしない、何も出来ないと意識させられる様になると政権交代直後には称賛しきっていた民主政権を責める様になり、前政権と同じく官僚により政治は支配されていると激しい批判が行われる様になり、官僚により政治は支配されていると主張しながら選挙を強く求める様になる。
可笑しくないか。本当に官僚により政治が支配されているのなら、選挙を繰り返し行おうと政権政党を変えようと官僚に支配されている政治体制に変化などありえる訳など無く、全く無意味な行動をさせられているに過ぎないだろう。
だが官僚は行政機能を稼動する為の国家公務員の職員でしかないし、その職員を国会により成立された法に基づき稼動を指示しているのが国会議員などによる閣僚の筈だ。
他の者達はどうなのか知らないが、自分は官僚が政治を支配しているなどといった事など全く理解できない。
何故、その様な政界批判や官僚批判が活発に行われるのか不可思議でならない。
何故、その様な政界批判や官僚批判が活発に行われるのか不可思議でならない。
官僚の行政機能の稼動を指示している国会議員、政権政党の選択を任されているのは有権者である国民であり、政治に対する責任を最も強く求められているのは国会議員などとされる政治家などでは無い。
その政治家の選択を任されているだろう有権者である国民ではないのか。
主権者である国民は、本来政治の動きなどには注視していなければならない筈だ。
だが、マスコミなどに誘導され発足された民主政権になってからは経済面、社会面などで本格的な活動を行っていたとは思えないし、特に東日本大震災が起こってからの対応と復興対策に関しては非常に鈍感であった事は間違いない。
民主党は本当に国民の為の政治を実行しようとしたのでは無く、権力を握りたいと意識しただけで国民を全く無視し前政権をマスコミと共に徹底的に批判する事により、国民意識を誘導し政権交代を実現させたに過ぎない。
存在価値を全く感じさせてくれない非常につまらない政党だ。
現在の民主政権は政治政策を客観的に見るのでは無く、マスコミの報道や民主の適当な主張などに釣られ偏向的に見る様になっていた国民の選挙により誕生させた。
それにより日本の状況は改善されたのだろうか。逆だろう、大きく悪化している。
国民は日本を現在の状況としたのは民主政権だとあくまでも政党批判を繰り返すが、09年の衆議院総選挙で民主党を政権政党と選択たのは国民であり、09年以前よりも日本状況を悪化させていった責任は有権者である国民にある筈で、自分達に任されている筈の責任を全く無視し、国民により選択された民主政権に責任転嫁していると思えてならない。
数年前よりマスコミにより政治離れといった事がよく報じられているが、その様な現状としたのは正に政界批判を報じてきたマスコミだろう。
だが、主権者である国民は本来は政治などには強く関心を持ち、国会や政権政党だけでなく他の政党の行動などもしっかりと見ていなければならない。
だが、主権者である国民は本来は政治などには強く関心を持ち、国会や政権政党だけでなく他の政党の行動などもしっかりと見ていなければならない。
それにより選挙が実行される時には、どの政党を選択するかマスコミなどに誘導される事なく自分の意思を持って行わなければならない。
でなければ、主権者であり政治に関しても最も大きな責任を任されている国民が政治離れを示すかの様に適当に投票を行っているか投票棄権している事は間違いないだろう。完全な責任放棄だ。
現在の各紙の世論調査とやらでは、自民が圧勝し民主は大惨敗とされている。更に自公では300議席以上確保も高いと。
一時は第3極として良い様に報じられていた維新の会やみんなの党、突然に発足した未来の党などは支持率を伸ばす事など無く、大きな議席巣を確保する事は無いとされている。だが、どの政党に投票するか示していない人々も多く存在している様で世論調査などといった事など鵜呑みにする必要など無いだろう。
一時は第3極として良い様に報じられていた維新の会やみんなの党、突然に発足した未来の党などは支持率を伸ばす事など無く、大きな議席巣を確保する事は無いとされている。だが、どの政党に投票するか示していない人々も多く存在している様で世論調査などといった事など鵜呑みにする必要など無いだろう。
自民と民主だけを考えれば、自民が有利であり民主が不利である事は間違いないだろうとは思えるが。
各紙が一致して自民が圧勝とし民主が大惨敗としているのだから、自民の有利と民主の不利の可能性は極めて高いのだろう。
だが、選挙後の政界再編はどうなるのか、これも重要な事であって各党がどの様な事を主張し訴えているのかなどをしっかりと意識していなければならないんじゃないか。
だが、選挙後の政界再編はどうなるのか、これも重要な事であって各党がどの様な事を主張し訴えているのかなどをしっかりと意識していなければならないんじゃないか。
09年以前の様に政権与党がどの様な政策を行おうと、単純に野党が批判を繰り返すような事が発生すれば、日本の国会は全く存在価値のない物となってしまう。
政権与党が法案提出した時に野党がそれをどの様に判断し姿勢と行動を見せるのか。それに対し政権与党はどの様に応じるのか。
また、野党などより議員法案が提出された時に政権与党はどの様に応じるのか。
また、野党などより議員法案が提出された時に政権与党はどの様に応じるのか。
明日には選挙の投開票が行われる日となっているが、有権者の責任を持ってしっかりと行かなければならないだろうし、その後も一部の政治家の声やマスコミの報道に踊らされる事なくしっかりと政治を見ていなかければならない。
主権者である国民の政治に対する責任を無視する様な事など行ってはならない。
主権者である国民の政治に対する責任を無視する様な事など行ってはならない。
栃木県でひき逃げ事件が発生していた様だが、先月31日に捕らえられたその犯人が狂った事を言っている。「ぶつかったが相手からぶつかってきた。パラグアイではぶつかった相手を助ける義務はない」と。
この事件はもう4年前の事件だったみたいだが、軽自動車に乗っていた犯人が交差点を左折する時に自転車に乗っていた女子高生にぶつかり、そのまま逃げた。
この犯人はバリオス・ビジャマヨル・ルイス・アルベルという者でパラグアイ出身らしいが、パラグアイの人々はこの犯人の言葉を知った時にはどの様に思うのだろうか。
交差点を左折している時にぶつかったというのだから、自転車に乗っていた女子高生は横断しようとしていたんだろうな。自転車に乗っている者も、車などの動きはしっかり意識しなければならないのかもしれないが、それ以上にしっかりと意識して右左折しなければならないんじゃないか。
自転車や歩行者などは自分を車などから守る為に意識しているのだろうし、車などに乗る者はその様な事が起こらない為にしっかりと意識していなければならない。
バリオス・ビジャマヨル・ルイス・アルベルトという者は、乗車する者の一寸した常識を非常に軽視していたのだろうか。それにより、交通事故は発生した。
そして加害者は被害者の救助を第一に考え行動しなければならない。でなければ、被害者はその場で亡くなってしまう可能性が非常に高い。
こういったことは、世界の人々にとっては共通する常識なんじゃないだろうか。
なのに、自分の国では自分が被害者とした者を助ける義務は無いと非常識な発言をする。自分の国だけで無く、同胞も強く侮辱する発言ではないかと思えてならない。
日本に在住するパラグアイの人々はこの事件を知った時、更に発言を知った時にどの様な気持ちとなっているのだろうか。
この事件はもう4年前の事件だったみたいだが、軽自動車に乗っていた犯人が交差点を左折する時に自転車に乗っていた女子高生にぶつかり、そのまま逃げた。
この犯人はバリオス・ビジャマヨル・ルイス・アルベルという者でパラグアイ出身らしいが、パラグアイの人々はこの犯人の言葉を知った時にはどの様に思うのだろうか。
交差点を左折している時にぶつかったというのだから、自転車に乗っていた女子高生は横断しようとしていたんだろうな。自転車に乗っている者も、車などの動きはしっかり意識しなければならないのかもしれないが、それ以上にしっかりと意識して右左折しなければならないんじゃないか。
自転車や歩行者などは自分を車などから守る為に意識しているのだろうし、車などに乗る者はその様な事が起こらない為にしっかりと意識していなければならない。
バリオス・ビジャマヨル・ルイス・アルベルトという者は、乗車する者の一寸した常識を非常に軽視していたのだろうか。それにより、交通事故は発生した。
そして加害者は被害者の救助を第一に考え行動しなければならない。でなければ、被害者はその場で亡くなってしまう可能性が非常に高い。
こういったことは、世界の人々にとっては共通する常識なんじゃないだろうか。
なのに、自分の国では自分が被害者とした者を助ける義務は無いと非常識な発言をする。自分の国だけで無く、同胞も強く侮辱する発言ではないかと思えてならない。
日本に在住するパラグアイの人々はこの事件を知った時、更に発言を知った時にどの様な気持ちとなっているのだろうか。
昨夜のテレビニュースで報じられていたけども、昨年10月に山形市で消防車出動を要請する学生がいたが、山形市の消防本部は結局はそれを拒否した。
この事に学生の母親が消防本部は妥当な措置を行っていたのか、救急車が出動されていれば学生は助かっていたのではなかったかと山形市に損害賠償を求める裁判を起こしている。
このニュース記事はTBSのサイトにも記されているんだが、と同時に学生と消防本部の電話でのやりとりが紹介されている。
-引用-
通報をしたのは、当時、山形大学2年生だった大久保祐映さん(当時19)。大久保さんは山形市内で一人暮らしをしていました。電話はその自宅からでした。
「あなたが苦しいのね、なんてところですか?あなたのお名前は?お名前は?」(消防)
「ジュウキュウ・・・」(大久保さん)
「あなたの名前を教えてもらっていいですか?」(消防)
「19です」(大久保さん)
「19歳なのね?あなたのお名前は?」(消防)
「大久保です」(大久保さん)
「はい?」(消防)
「大久保です」(大久保さん)
「オオクワ?」(消防)
「クボです」(大久保さん)
「大久保さんね」(消防)
電話の音声からは苦しそうな大久保さんの様子がうかがえます。
「歩けるの?」(消防)
「あ、動けると思います」(大久保さん)
「自分で動けるの?」(消防)
「はぁい・・・」(大久保さん)
「あの、救急車じゃなくてタクシーとかで行けますか?」(消防)
「あ・・・はぁ・・・タクシーの番号が分かれば自分で行けると思います」(大久保さん)
「あの、病院は、あの、お教えするので、タクシーの番号はお教えすることができないので、104で聞いてください」(消防)
「はい・・・」(大久保さん)
「お大事に」(消防)
(TBS Newsi2010/10/08)
-引用-
昨夜にこのニュースで学生と消防本部との電話でのやり取りを聞いてみれば、学生は間違い無く大きく体力を失いどの様な病気に掛かっていたのかは分らないけれど、かなり酷い状態となっていたのではないかと思われる。
この事に関し山形市は「消防本部の対応は適切だった」と主張している。
だが、あの学生の声に力が無くなっている事は完全に明らかで、消防本部の問いには一応答えてはいたが、即座に的確な答え方をしていたのでは無く、問われるがままにただ単純に答えていただけではなかったのか。
消防本部の者は学生の声の状態、問いに対する答え方などを的確に判断すれば決して安全な状態では無いと判断できていたのではないのか。
学生からの救急車出動の要請に応じるべきではなかったかと思えてならない。
何よりも、消防本部の者は「あの、病院は、あの、お教えするので」と語っているが、結局は病院に関しなんら情報を提供する事無く「お大事に」を最後に電話を切っている。
山形市はこの消防本部の者の対応を「適切だった」としているが。決してその様な対応を行っていたとは思われない。逆に見殺したんじゃないかとも思えてしまう。
救急車が出動し即座に救急病院に運ばれれば、学生のその時の状態によるのかもしれないが助かっていた可能性は極めて高いんじゃないだろうか。
その様に思うと、山形市の消防本部の者は救急車出動の要請を行った者の状態を電話でのやり取りで要請側の状態を全く把握しようとはせずに、自分の問いに対する答えだけを意識し、要請を拒否したんじゃないのか。
非常に納得の出来ない対応だ。
自分の家族の体調が可笑しいと判断した時に、何度か消防本部に救急車の出動を要請した事がある。当然だろうが、家族の状態を問われる。
自分なりに状態を訴え、救急車に来てもらいたいと強く訴えるが、必ず要請に応じてくれる。
自分もあるが、救急病院へ運ばれた後にはそのまま入院させられる事もある。そして、何が原因で体調が悪くなっていたのかを知らされ、驚かされる事もあった。
現在では救急車はタクシー扱いされているともされている。軽い症状で急いで病院へ行かなくてもよい状態でもやたらと救急車の出動を要請される事が多くなっているとされる。
実際に救急隊員が行ってみれば、救急病院へ運ばれる事を望む者の状態は軽く、決して救急患者の状態では無い。
こういった者達の要請が多くなっている事から消防本部では患者の状態をしっかりと把握する為に的確な問いを行っているのだろうし、現場に赴いた救急隊員達も実際に救急病院へ運ばれる事を臨む者の常態を確認した上で、最終的に判断する事が基本となっているのだろうか。
実際、家族の為に救急車を呼んでも救急隊員は運ばれる事を望む者の常態を確認した上で確定する事が多いし、時にはその様な事などせずに即座に運んでくれる事もあるが。
軽い気持ちで救急車出動を要請する者もいるかもしれないが、自分や家族が危険な状態と感じ要請する者の訴える声には大きな違いが出るのではないのだろうか。
死にたく無い、或いは絶対に助けてもらいたいと強く思う者の訴える声は落ち着いた状態では無い筈だ。
自分達もその様な思いから激しい口調となり訴えていた事が何度かある。
そしてこの学生が消防本部へ要請した時の声は、大きく体力を失った弱々しい状態となっていたし、問いを的確に判断できない時もあれば、単純に答えてしまっている時もある。
対して消防本部の者は要請した者の体の状態をどの様に伺っているのだろう。全くその様なやり取りが見られないのだが。
救急車に関わる消防本部の者は、本人や家族の体調の状況をしっかりと伺い把握する事が最も重要な事ではないのか。
だが、この救急隊員はその様な対応などは一切行わず適当に、いい加減に対応していたんじゃないのか。
山形市はこの電話のやり取りを「消防本部の対応は適切だった」と主張しているらしいが、何も非を認めようとはせず、ただ裁判から逃げようとしているとしか思われない。
山形市の消防本部の者は誤った対応を行っていた事は間違いないだろうし、山形市は率直に消防本部の非を認めるべきではないかと思われるが。
この事に学生の母親が消防本部は妥当な措置を行っていたのか、救急車が出動されていれば学生は助かっていたのではなかったかと山形市に損害賠償を求める裁判を起こしている。
このニュース記事はTBSのサイトにも記されているんだが、と同時に学生と消防本部の電話でのやりとりが紹介されている。
-引用-
通報をしたのは、当時、山形大学2年生だった大久保祐映さん(当時19)。大久保さんは山形市内で一人暮らしをしていました。電話はその自宅からでした。
「あなたが苦しいのね、なんてところですか?あなたのお名前は?お名前は?」(消防)
「ジュウキュウ・・・」(大久保さん)
「あなたの名前を教えてもらっていいですか?」(消防)
「19です」(大久保さん)
「19歳なのね?あなたのお名前は?」(消防)
「大久保です」(大久保さん)
「はい?」(消防)
「大久保です」(大久保さん)
「オオクワ?」(消防)
「クボです」(大久保さん)
「大久保さんね」(消防)
電話の音声からは苦しそうな大久保さんの様子がうかがえます。
「歩けるの?」(消防)
「あ、動けると思います」(大久保さん)
「自分で動けるの?」(消防)
「はぁい・・・」(大久保さん)
「あの、救急車じゃなくてタクシーとかで行けますか?」(消防)
「あ・・・はぁ・・・タクシーの番号が分かれば自分で行けると思います」(大久保さん)
「あの、病院は、あの、お教えするので、タクシーの番号はお教えすることができないので、104で聞いてください」(消防)
「はい・・・」(大久保さん)
「お大事に」(消防)
(TBS Newsi2010/10/08)
-引用-
昨夜にこのニュースで学生と消防本部との電話でのやり取りを聞いてみれば、学生は間違い無く大きく体力を失いどの様な病気に掛かっていたのかは分らないけれど、かなり酷い状態となっていたのではないかと思われる。
この事に関し山形市は「消防本部の対応は適切だった」と主張している。
だが、あの学生の声に力が無くなっている事は完全に明らかで、消防本部の問いには一応答えてはいたが、即座に的確な答え方をしていたのでは無く、問われるがままにただ単純に答えていただけではなかったのか。
消防本部の者は学生の声の状態、問いに対する答え方などを的確に判断すれば決して安全な状態では無いと判断できていたのではないのか。
学生からの救急車出動の要請に応じるべきではなかったかと思えてならない。
何よりも、消防本部の者は「あの、病院は、あの、お教えするので」と語っているが、結局は病院に関しなんら情報を提供する事無く「お大事に」を最後に電話を切っている。
山形市はこの消防本部の者の対応を「適切だった」としているが。決してその様な対応を行っていたとは思われない。逆に見殺したんじゃないかとも思えてしまう。
救急車が出動し即座に救急病院に運ばれれば、学生のその時の状態によるのかもしれないが助かっていた可能性は極めて高いんじゃないだろうか。
その様に思うと、山形市の消防本部の者は救急車出動の要請を行った者の状態を電話でのやり取りで要請側の状態を全く把握しようとはせずに、自分の問いに対する答えだけを意識し、要請を拒否したんじゃないのか。
非常に納得の出来ない対応だ。
自分の家族の体調が可笑しいと判断した時に、何度か消防本部に救急車の出動を要請した事がある。当然だろうが、家族の状態を問われる。
自分なりに状態を訴え、救急車に来てもらいたいと強く訴えるが、必ず要請に応じてくれる。
自分もあるが、救急病院へ運ばれた後にはそのまま入院させられる事もある。そして、何が原因で体調が悪くなっていたのかを知らされ、驚かされる事もあった。
現在では救急車はタクシー扱いされているともされている。軽い症状で急いで病院へ行かなくてもよい状態でもやたらと救急車の出動を要請される事が多くなっているとされる。
実際に救急隊員が行ってみれば、救急病院へ運ばれる事を望む者の状態は軽く、決して救急患者の状態では無い。
こういった者達の要請が多くなっている事から消防本部では患者の状態をしっかりと把握する為に的確な問いを行っているのだろうし、現場に赴いた救急隊員達も実際に救急病院へ運ばれる事を臨む者の常態を確認した上で、最終的に判断する事が基本となっているのだろうか。
実際、家族の為に救急車を呼んでも救急隊員は運ばれる事を望む者の常態を確認した上で確定する事が多いし、時にはその様な事などせずに即座に運んでくれる事もあるが。
軽い気持ちで救急車出動を要請する者もいるかもしれないが、自分や家族が危険な状態と感じ要請する者の訴える声には大きな違いが出るのではないのだろうか。
死にたく無い、或いは絶対に助けてもらいたいと強く思う者の訴える声は落ち着いた状態では無い筈だ。
自分達もその様な思いから激しい口調となり訴えていた事が何度かある。
そしてこの学生が消防本部へ要請した時の声は、大きく体力を失った弱々しい状態となっていたし、問いを的確に判断できない時もあれば、単純に答えてしまっている時もある。
対して消防本部の者は要請した者の体の状態をどの様に伺っているのだろう。全くその様なやり取りが見られないのだが。
救急車に関わる消防本部の者は、本人や家族の体調の状況をしっかりと伺い把握する事が最も重要な事ではないのか。
だが、この救急隊員はその様な対応などは一切行わず適当に、いい加減に対応していたんじゃないのか。
山形市はこの電話のやり取りを「消防本部の対応は適切だった」と主張しているらしいが、何も非を認めようとはせず、ただ裁判から逃げようとしているとしか思われない。
山形市の消防本部の者は誤った対応を行っていた事は間違いないだろうし、山形市は率直に消防本部の非を認めるべきではないかと思われるが。